先日ねこ福の仙人を連れて行ったあべのハルカスで開催中の「北斎展」に、
改めて旧友と訪れました。
北斎は、子供の頃熱烈にその世界観に憧れたものでした。
永谷園のお茶漬けのりに封入されている「富岳三十六景」のカードを集めていて、
今回はどんな絵が入っているのかとドキドキして封を開けていました。
ゆるぎなくそこに「ある」自然の静寂とその舞台をちっぽけに間借りしている人間の営みの息吹が作り出す空間描写が、なんとも言えず惹きつけられました。
神性さという言葉を知っている今は、そう表現しますが、その頃はそれがなんだかはわからず、ただ「大切にしたいもの」と感じていたかも。
今回の展示は晩年の熟達した作品ばかりを揃え、
北斎の宇宙観を切り口にした解説が添えられていて、
美術展も深化したものだと驚かされました。
そして、その企画展が長蛇の列で大混雑しているという。
世の中の意識もそれについていけるほど、「宇宙」は庶民にも身近な概念になりつつあるのですね。
最高傑作と言われているこの作品、
確かに構図の斬新さ、完璧さだけでも人目をひきますね。
波に翻弄される船頭たちのちっぽけさがユーモラスでもあり。
でも、今回、それだけでない深い意図を表現することを試みているのだと気がつき、しばし絵の前から離れられなくなりました。
それというのは、船頭たちの悲壮な表情に実物を間近で見ることができて気がつきました。
船頭たちの顔は皆、シャリコウベのように描かれています。
生きた心地がしない、そりゃそうですね、こんな大波に見舞われて死が眼前にあるのだから。
大波は小舟に掴みかかる手のように、人間の運命を掌中におさめ、いかようにでもしてしまおうとする程で描かれている。
そのずっと奥に、富士が悠然と構えている。決して動じることのない「真理」の象徴かのように。
なるほど、これは人の生涯を象徴的に表し、ひいては宇宙の摂理をも表現しようとした壮大な企みだったんだ。
当の人間は来る波来る波に悲壮な思いで一世一代の大事として立ち向かうけれど、
波は永遠に止むことのない地球の息吹。不動の富士と同様に常にそこにあるもの。
言葉では表現し切れませんが、長らくぶりに北斎の伝えたかった意図を感知することができてとても清々しい気持ちになりました。
その帰り、旧友と飲み語りすぎて不覚にも終バスを逃してしまいました。
山里への8kmの道のり、タクシーで通過してしまうのはもったいない気がして歩いて帰ることにしてみました。
北斎のいう宇宙とやらに触れてみたい気がして。
そんなことをするのはたぶん20歳以来です。
顔に当たる風が冷たいけれど心地よく、足の痛みにも昔の体験が懐かしく思い出されました。感じるものは記憶と同じだけれど、精神状態は違っていました。
こうでなければならないという拘束感から解放され、自由の中に居る。
『とうとうわたし、好きなように生きても良くなったんだなぁ』
って来し方と今置かれてる状況を比べて嬉しくなって空を見上げたら、
満天の冬の星座が輝いていました。新月の夜なので輝きもひとしお。
旧友とは、この秋に身近で審判されたあることについて語り合っていました。
それは、わたしが暮れから春頃まで長らく気分を燻らせてきたことでもあり、
2人にとっても数年来腑に落ちずにいたことに答え合わせをする出来事でした。
結論、「自分の感覚を信じればよかったんだね、良かった、私たち間違ってなくて」。
絵画を観て感じたこと、満天の星空に見守られて感じたことも全て正解ってことね?

