藍の風に
こちらにはあまり書けていなかったのですが
このところワケあってエネルギーを注いでることのひとつ
草木染め。
そのわけについては追々解き明かしていきますね:)
写真は7月に染めた蓼藍の生葉染め
それから8月に同じく藍の生葉と藍建てでグラデーションに染めたもの。
何度も藍を重ねて出てきた偶然のグラデーション。
今日はその藍の青と空の青が溶け合うようでした。
藍の風に
こちらにはあまり書けていなかったのですが
このところワケあってエネルギーを注いでることのひとつ
草木染め。
そのわけについては追々解き明かしていきますね:)
写真は7月に染めた蓼藍の生葉染め
それから8月に同じく藍の生葉と藍建てでグラデーションに染めたもの。
何度も藍を重ねて出てきた偶然のグラデーション。
今日はその藍の青と空の青が溶け合うようでした。
たとえば陰謀論。
陰謀論そのものや陰謀論者を否定するつもりはない。
けれど、なにか引っかかりを覚えるのは、それを語る人々の中に「自分は知っている、あなたは知らない」という態度をとる人が少なくないこと。
真実を知ることはもちろん大切だとしても、そこには「知らない人」への蔑みが含まれてるように感じられる。
正義を笠に着て自分を上段に置き、権威的にふるまうような。
陰謀論を断罪する側も、同じ構造だろう。
これはわたし自身の中にもある要素で、だから自戒を込めつつ書いているのだけど。
(どんなものであれ、自分の感覚をキャッチできていなければ、声の大きな人に人々は追従するだろう。
どちらでもいいから、断言してくれる人に賛同者が集まる群集心理・・誰かに決めてほしいという)
で、二極化という言葉がある。
どのくらい前から言われるようになったか、スピリチュアル・リーダーたちがを使うようになったよね。
彼らの文脈では「アセンションに伴って人々が二極化する」とか、そんな意味合い。
その二極化とは、「善と悪」とか、「光と闇」とか、「上と下」とか、そういうのを指してるのだろうけど、そういうことを言う人にもわたしは、先の陰謀論者と同じ匂いを感じる。
「二極化」という言葉を使う人は、自分を「光や善の側」に属する者という雰囲気を漂わせてること。
けれど、誰もが光であると同時に闇も内包する存在だと知っていたなら、二極化という言葉を使わないでしょ?
その言葉そのものが分断を生み、強化してるんじゃないか。
わたしたちの生きるこの場所は、「善や悪」、「光や闇」では分かちきれない多層のグラデーションじゃない?
エネルギーが強まるに従い、コントラストがはっきりしてきたり信念が強化されることはあっても、絶対的な二極化などありえない。
ただのプロセスで、そこには上も下もない。
愚者のたわごとですが。
昔、お茶の時間の縁側で「お茶の木を植えようと思うんだけど・・」と、タイチローに持ちかけたことがあった。
タイチローは「お茶の木ならあっちの方に植ってたと思ったがなぁ」と、南東の方角を指差した。
わたしはてっきり、うちに入ってくる砂利道沿いの垣根のことを言ってるのだとばかり思って、出かける道すがらに思い出しては探してみたけど、茶の木らしきものは見つからず、そのままになってた。
去年の11月、東側の生け垣の辺りを整理しているとき、生け垣の内側、生け垣よりも一段低くなっている木々に、白い花が咲いているのを見つけた。
これはもしや茶の花では?と写真を撮って画像検索すると、やはりそれはお茶の花らしかった。
(わたしたちの生活スペースからは納屋の裏手になっていたから、それまで花の時期に気づかなかった。いつも剪定してるマルゴは見ていても気づかなかったんだろう)
タイチローは、この場所のことを言っていたのか。
タイチローがあっちの方と指を差した日から、何年越し?
おそらく15年以上は経ってるだろうと、あの日の会話を思いながら、次の八十八夜5月1日、スケジュール帳に「茶摘み」と書いておいたんだった。
まもなく八十八夜を迎えようという先日、あれは本当に茶の木なのか?と、息子と言い合って、試しに少しだけ摘んだ葉を、生のまま揉んで飲んでみた。
たしかにそれは、とても美味しいお茶の味がした。
というわけで確信を得たわたしたちの、今日はお茶摘み。笑
少し蒸して揉んだだけのお茶をさっそくいただいた。
摘みたてのお茶は普段買って飲んでるお抹茶よりよほど、風味も香りも高く美味しい。
目が開く。
長年放置してあったのだからもちろん無農薬。
タイチローが植えたのか惣吉じいちゃんが植えたのかも、今となってはわからないし、茶の種類もわからない。
いつかお茶の木を植えようと、ここに誰かが木を植えた。
それを何世代だかわからないあとのわたしたちが、ちゃんと飲んでいますよ。
とても美味しいお茶です。
静けさのうちに
あなたは花開く
誰に見せるためでもなく
何者かになろうとするでもなく
ただ太陽と呼吸を合わせて
触れる大気にほどかれるがまま
自分に名前があることさえ知らない
ただ 咲くことを知っている
愛ゆえに咲くという本性だけで
長らく古いままだったこのブログのヘッダーも新しくなり、
わたし自身も知らない場所への旅が始まった気がしています。
「生きることはアートそのもの」
それは大それたことじゃなくて、小さな花を生けるとか、皿を洗うとか
手を動かしてパンを焼くような、詩を編むような日々。
雲が刻々と形を変えていくように、この場所も静かに変化していきます。
Art of Life
わたしは ただこの瞬間を呼吸する
春 いっせいに芽吹きを迎える生命に耳を澄ませ
夏 照りつける太陽に肌を灼かれ
秋 自然から与えられる実りに手を合わせ
冬 静けさに身を沈めながら
ヒマラヤの頂に登らずとも 庭の草花に充足し
ハートの奥の振動に気づきながら
誰かの言葉に従うのではなく
この内なる静寂に耳を傾けること
外側を探し回らなくても
ほんとうはすべてが ここにあること
日々のささやかな営みの中に
すでに真理が満ちているのだと知ること
わたしがここで綴ることばは
教えでも思想でもなく
地球に住まうひとときの
ちいさな手記のようなもの