映画「梅切らぬバカ」について少し |      生きる稽古 死ぬ稽古

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ー毎日が おけいこ日和ー
        

これは連載か?

続きものなのか?

 

と思ってしまうほど、

昨日のブログについて再考せよ、と言われているような映画でした。

 

 

映画「梅切らぬバカ」は2021年公開の映画です。

加賀まりこと塚地武雅が親子役です。

 

加賀まりこは実に54年ぶりの主演映画なのだそう。

 

自閉症の息子と老いた母親の暮らしを描いた作品。

塚地武雅の演技力は定評がありますが

見事にこの自閉症の息子(といってもオッサンですが…爆  笑

の役柄を演じきっています。

 

さて、

連載か? と書いたのは、

昨日の↓このブログです。

 

この中で<信頼>と<安心>に違いについて考察している

本の内容をご紹介しました。

 

(こうしてあげているんだから喜ぶはずだ)というような思い込みや

(せっかくやってあげたのに感謝の気持ちがない)というように残念に思うようなこと、

こういう状態が安心であり、

一方で、

どんな見返りも期待せず、ただそれを行うこと、

これが信頼だということです。

 

ということをブログに書いたわけですが、

映画の中に出てくる登場人物たちは

この<安心>ですらなく、

見事なまでに<自己>だけに凝り固まっています。

 

障害者を集めたグループホームに反対する人たちは

「夜中に大声を出すので寝られない」

とか

「奇声にビックリして転んでケガをした」

とか

「子どもたちが安心に暮らせる町を」

とかとかとか。。。。。

 

声高に主張するその言葉の中には

相手がどのような人なのか?

相手はどのような気持ちなのか?

といった目の前の相手が見えておらず、

むやみに怯えたり

被害者意識を持ったり

嫌悪感をぶつけてきたり

するのです。

 

ここで、

昨日も引用した山岸俊夫の言う

 

信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、

相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性ゆえに、

相手に対してひどい行動は取らないだろうと考えることです。

 

と言う言葉を、もう一度噛み締めたいと思います。

社会的不確実性というのは、

何が起こるのか予測がつかない

ということです。

どうなっちゃうのかわからない。

 

何をしでかすかわからない。

そんな不確定要素は排除したい。

これがグループホームを排除したいという人たちの論理です。

 

でも、もしここでグループホームの先生や保護者の方と

落ち着いた話し合いができていたら

彼らに強暴性や暴力的な部分がないこと

悪意を持った行動は起こさないこと

などが理解できるはずです。

(とりあえず<この映画の中では>という意味です)

 

そこで<信頼>という方向に舵を切れたなら

予測不能な出来事は起こるかもしれないけれど

それは悲惨な出来事や

被害者を生み出すような事態は起こらない

ということがわかるはずなんです。

 

自分に理解できないこと

自分と違うこと、もの

自分の中の平穏を乱すもの

に対して、

ワタシタチは凶暴になりがちです。

相手を悪者にしようとします。

 

そんな時に

<利他>という視座を持つことができると

相手をよく見ようという気持ちが湧いてきます。

 

これは誰かを裁くためのものではなく

(自己中の人が悪い!という、これも相手を糾弾することにつながりますものね)

自分の中に静けさを保つこと

(これは言動を起こす前にじっくりと状況を理解しようとすること)

のために役立つのではないでしょうか?

 

○か×か?

いいか悪いか?

どちらが正しいか?

悪いのは誰か?

と、ワタシタチはすぐさま答えを求められがち、答えを出しがちです。

 

でも、そうではなくて

静けさに立ち返ることができ

利他について思いを巡らせることができると

答えにならないナニカにたどり着けるかもしれません。

 

この映画では、

キセキなど起こらず

大事件も起こらず

ただ淡々と日々が流れていくだけです。

それだけでこの映画は終わります。

 

でも、

それでいいと思います。