パート1に続き、1951年9月8日に日本がサンフランシスコ条約を締結し、国際社会に復帰する前に欧州に向かった日本人について述べる。パート2はスイスである。

 

スイスは中立国であったから、1945年8月の日本敗戦後も、翌年1月に欧州の中立国に残る邦人に対して、マッカーサー元帥の名前で引き揚げ指令が出されるまで、日本人の行動は大きな制限を受けなかった。朝日の笠信太郎はジャーナリストの資格を保持することが出来た。

 

そういう国ゆえか、新たな受け入れの間口も広かったようだ。

スイスの公文書館に「日本人の入国1946年~1959年」という史料が残っている。

もっぱらフランス語で書かれているのが、筆者には難物である。まずはこれからスイスへの入国者について読み解いていく。

 

最初に出てくるのは”Akira SUEKUNI”で1946年3月18日に申請をしている。彼が戦時中、スイスの公使館に勤務していた末国章であることはすぐにわかった。

 

スイスにおいて邦人が日本に引き揚げたのは、同年1月24日の事であった。末国は妻(ジルベルテ)子供二人(アキコ,レイジ)と共に、加瀬俊一公使らと船の出るナポリまで向かったが、病気のため帰国船には乗らなかった。そこからスイスへの入国申請となったのだが、書類には「異議なし」と書かれているので、入国第1号であるが、日本からの渡欧者ではない。

 

<稲垣守働>

 

次の申請は”Morido INAGAKI”で1946年8月26日の申請である。終戦からわずか1年後である。生まれは1923年で大学生、住まいは長野県軽井沢と書かれている。

 

彼は稲垣守働(いながきもりどう)、父親は戦前ジュネーブの国際連盟で日本の常任代表を務めていた稲垣守克(もりかつ)、母親はドイツ人で、本人は東京帝大(現在の東大)の学生であった。戦後もすぐに東京に戻ることなく、疎開先である軽井沢に滞在していたようだ。

 

守働は『World』という戦後の民主化の中で生まれ、間もなく消えたいわゆるカストリ雑誌に「スイス通信:第一報」、「横浜からスイスまで:ヨーロッパ留学記」という2つの記事を書いている。

記事の冒頭の説明には「世界連邦同盟理事長を父に、幼児からカレッジ4年までの青年時代の初期をスイスで育った。その後東大理学部に入り、戦後初のヨーロッパへの留学生」と紹介されている。外国での教育が長くて、東大に入れたという事は、編入の様なシステムが当時もあったのであろうか?

この雑誌によれば彼が戦後最初の欧州留学生である。1948年10月12日オランダ船 ラングリースコツト号でジュネーブに向かったのだが、この船にはイギリスの入国ビザを持つ2人の日本人が同船していたという。

そして「私はジュネーブに帰ってきた。懐かしのスイスよ」と書いている。当時の人からすると“日本人離れした“背景を持つ人が、まず海外に出たといえよう。渡航費用を含めた留学費用をすべて自分でまかなったのであろうか?

おそらくその答えとして筆者が見つけたのは、父守稲垣守克の名前が「スイスの休眠口座」として2001年にスイス銀行協会が公表したリストに挙がっていることだ。スイスの銀行は長く、ナチスの被害者となったユダヤ人の財産を預かったままで、その金額は莫大なものだという批判を受けて、親族らへの返金のために公開した。その休眠口座リストには数名の日本人の名前もあった。日本人は皆欧州駐在者で、少額が残ったままという印象を筆者は得た。

 

この預金を守働はスイスに着いてから利用したのではないか?そして守克はスイス銀行に預金を残して、日本に帰国した。

戦前にスイスに残してきた資産ゆえに、敗戦直後で円の価値が紙切れ同然になったにもかかわらず、守働のスイス留学が可能となった。彼は最初の欧州への私費留学生でもあり、軽井沢を住まいとして申請したことは間違いない。

守働の入ったジュネーブ大学には、聖書学者の前田護郎が終戦後も講師として留まっていた。時期は重なっているが、2人とも相手について書いてはいない。付け加えればジュネーブの前田は1948年9月から10月、イギリスのオックスフォードのマンスフィールド・カレッジに招かれて同地に滞在している。招待があると日本人もかなり移動できたようだ。

軽井沢には稲垣虎次郎という地元出身で、旧道に洋風の稲垣商店を開いた人物がいた。彼も稲垣姓だが守克・守働とは繫がりはないようである。また軽井沢で「稲垣家」というと虎次郎の系列を考える人が多いかほとんどだ。

(「戦時下軽井沢のふたつの稲垣家」参照)
 

<稲垣守克> 

 

スイス公文書館のリストには間に数名入るが、1949年9月6日にはすでに紹介した稲垣守克の申請がある。1893年生まれで住居は東京である。

 

ジュネーブの国際連盟で日本の常任代表を務めていた稲垣守克は1939年、欧州戦争勃発前に日本に引き揚げた。そして彼の働きかけにより1948年、尾崎行雄軽井沢に別荘莫哀山荘を所有)元東京市長を代表、協同組合の父・賀川豊彦を副代表という布陣で、日本における世界連邦運動が発動することになった。

 

また遡って1922年には、守克は来日したアインシュタインの通訳をしている。アインシュタイン夫人と彼のドイツ生まれのトニー夫人は、その際に多く行動を共にしている。

 

そして1949年8月26日の朝日新聞に「(稲垣守克らは)9月、ストックホルムで開かれる世界連邦国際運動大会に出席のため、8月23日東京を出発した」という記事が出ている。先に述べたスイスの入国申請の時期と一致しているので、この後スイスに寄ったのであろう。タイミングからして空路による渡欧でないか。スイスでは、名前の知られた守克であるから許可はすぐ下りたであろう。

 

なお戦後アメリカを訪問した日本で2番目の女性牧師植村環(本編1で説明)は、アメリカ滞在中の1946年下半期から1947年3月ごろまでの間に、ジュネーブを訪問したと報じられている。彼女が戦後初の日本人の欧州訪問者であろう。

(スイスの入国申請書類に名前がないのは、アメリカのミッションの一員として訪問したためか?)

 

<ヘンリー玉置>

 

1948年にはもう一人スイスに留学をしている。ヘンリー玉置は父親が日本人で母親がドイツ人である。終戦直後横浜のセントジョゼフで2年間学んだ後、スイスのサンクトガレン大学に留学する。そして1950年、チューリッヒのアメリカ大使館(領事館?)でアメリカ大学入学試験を受けて、合格して一旦日本に帰国後アメリカに向かう。

 

改めて伺ったところ、ヘンリーは6月に横浜のセントジョゼフを卒業し、10月にスイスに向かった。父親が良く知るスイス人のジョゼフ神父が推薦状を書いてくれた。日本ではスイス公使館には手続きに行かなかったと語った。

 

今は存在しないパンアメリカン航空の飛行機に乗り込んだが、まだ夜間は飛べない機体だったので、上海、カルカッタ、イスタンブールで宿泊してブリュッセルに着き、そこからスイスエアーでスイスに向かった。(以上ご本人談)

 

自宅に飾ってある「表彰状」 1949年7月2日

スイス全国のギムナジウム大会のフォレスト・ラン(Waldlauf)で2位の成績。

身体の大きいヘンリーは運動が得意だった。

 

守働は同じ10月の出発だが船である。つまり到着ベースでは戦後初の欧州留学生はヘンリー玉置といえそうだ。なおヘンリーも戦争中は軽井沢で過ごしている。また2人とも母親がドイツ人で、戦前の欧州に暮らし、とても似た境遇だ。一家が1938年に日本に帰国する際に、賢い父親はスイスの銀行にお金を残したともいう。

 

戦後も再び軽井沢に住み続けたヘンリーであったが、2025年12月9日に惜しくも95歳で亡くなった。

筆者は昨日お宅をお邪魔してお悔やみを申した。

 

<片山哲(日本社会党初代書記長)>

 

片山は1949年5月に、急にMRA(道徳再武装)世界大会へ行ってはどうだという勧めを受けた。その話が進行して5月31日、妻と上原蕃と3人、着のみ着のままで羽田を飛び出すことになった。費用はMRAが引き受けた。

(MRAのホームページでは「片山哲夫妻、毎日新聞高橋編集長、藤本外信部長参加」となっている。またその時の写真には4人の男性と2人の女性が写っている。)

 

大会は6月4日からスイスの観光地コー(Caux)で行われる。アメリカ経由で3日の晩までにはスイスのジュネーブに着くという予定であった。当時としては格段のスピードである。なお片山もジュネーブ大学を訪問している。この時は稲垣守働が留学中であった。

 

同氏の書いた「青い鳥を求めて」には、他にも以下のような興味深い記述がある。

7月7日 西ドイツ ルール重工業の中心部デュッセルドルフ、デュイスブルグ、エッセン地方に向かう。戦後来訪した最初の日本人一行ということで、歓待を受け、ぶっ通しの会合続きであった。

 

パリでは長くパリで絵の研究をしている萩須高徳君の案内により見学。ロンドンで在留同胞50数氏の招待を受けたのは嬉しかった。殊にグラスゴー行きの汽車弁当に貰ったお寿司は、久しぶりの日本飯で、一同舌鼓を打った。

 

さすがロンドン、戦前から留まり、帰国しなかった日本人も多かったようだ。

ニューヨークでは、日本料理「都」の主人公特別の骨折りで、盛大な歓迎会を開いてくれた。

 

なお翌1950年は、中曽根康弘ら国会議員7名・広島市長・長崎市長、石坂泰三・本田親男ら経済人、労働組合代表など何と72名がMRA国際チームの招待で、スイス・コーを始め独・仏・英を歴訪する。

吉田茂首相は「1870年日本の代表が西欧に行き、日本の歴史を変えた。今回の日本の代表がコーに行くことによって、新しい日本を築くことになろう」と述べた。

 

そしてその際に日本人で初めて同時通訳ブースで国際会議の通訳を担当したのが、先述の尾崎行雄とテオドラの次女相馬雪香と、同時通訳の先駆者とされる西山千であったという。

 

<随行員としてのスイス入り>

 

占領下の日本では、国際会議には連合軍総司令部(GHQ)のメンバーが日本の代表として出席し、日本人が随員として合わせて参加している。

 

「来る4月21日からジュネーブで開かれる『戦争犠牲者保護の国際規定確立会議』に出席する総司令部アルヴァー・カーペンター法律局長、ジョージ・へーガン氏及び日本人随員浅海 鮎沢両氏の一行は来る4月12日、東京発空路カルカッタ経由でスイスへ向かう。」(読売新聞 1949年3月30日)

ここに登場する鮎沢氏とは鮎沢巌のことであろう。コロンビア大学卒業後、ジュネーブのILO本部に1934年まで勤務している。

 

「スイスのチューリッヒで開催される国際技術会議に出席するため総司令部ロバート・ヒッカソンと日本人3名、16日夜空路東京を出発。」という記事もある。

(読売新聞 1949年5月18日)

 

<その他の申請>

 

その他にスイスに申請した人物には小笹 Augustin Hideichiがいる。1949年4月1日フリーブール大学で神学の勉強のためと申請した。日本に滞在するフランス人のアグリ神父(Albert Haegli) の推薦であった。アグリ神父は横浜のミッション系スクール、セント・ジョセフの校長である。実際に渡欧したかは確認は取れない。

 

また藤田喜太郎は1951年4月11日に申請を行っている。彼は戦時中、書記生として公使館に勤務しており、私的用件のためとして再入国を希望した。

 

外交官北原秀雄はサンフランシスコ条約調印直後の1951年10月21日に、ロンドンのスイス大使館で入国申請を行った。彼もまた戦時中スイスに滞在していた。萩原徹が戦後初のスイス公使として、前任地パリからベルンに到着したのがそれから間もなくの1952年6月24日である。

 

このように終戦直後から私費留学生、国際会議参加など入国者のいたスイスであった。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。

 

パート2完 

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

 

ヘンリー玉置氏について書いた「又心の糧(戦時下の軽井沢) 」はこちら