<クーデンホーフ=カレルギー光子>
筆者が初めてこの名前に接したのは、1973年に放送された NHKの「国境のない伝記 クーデンホーフ家の人びと」であった。今調べると、テレビ放送20周年記念番組であった。テレビの歴史はそんなに浅かったのかと改めて思った。
オーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として、東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に見初められて結婚した、青山光子を演じたのは吉永小百合であった。最初は伯爵の元で小間使いとして働いた後、1893年に結婚する。こちらは今から130年以上前の事である。
本編ではそんな彼女と筆者のある種の”接点”を紹介すると共に、実家の青山姓について若干の考察を加えるものである。
東京市牛込区(現新宿区の一部)牛込納戸町で、油屋と骨董品店を営む肥前国佐賀藩出身の青山喜八と妻・津禰(つね)の3女として生まれた。
その生家のあった場所は現在公園となり、「史跡」として説明版がある。これを目当てに訪問する人はごく稀であろう。筆者は市ヶ谷辺りを歩いていてたまたま発見した。とりあえずという感じで数年前にその説明パネルを撮影した。(下)
ふたりの結婚は、東京府(当時)に届出された初の正式な国際結婚といわれている。
先日筆者は「バチカン公使館」が最初に設置された場所として、カトリック築地教会を訪問した。(下)
教会の中には小さな展示室があった。そしてふたりの結婚式は、ここカトリック築地教会で行われたことを知った。
こちらもたまたまの事である。光子の写真も見ることが出来る。(下)
時代はだいぶ遡る。筆者が戦前にウィーンに暮らした重光(旧姓山路)綾子さん宅を訪問し、いろいろ話を伺った時の事である。晩年の光子はウィーン郊外に移っていた。重光さんは筆者に次のようなことを語ってくれた、と自著『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編) 』に書いた。
「(光子が)日本人を恋しがっている、日本の子供と話がしたい」ということで母澄子らが時々通い、綾子さんも連れられて行ったことがある。そこでは良き母の理解者であった次女のオルガが、さほど大きくもない家で光子の世話をしていた。質素な生活であった。
実のところその訪問は綾子さんら子供にとっては退屈であった。そこではお世辞にも美味しいとは言えないケーキを食べた。そして山路家がウィーン滞在中の1941年8月27日に光子は死去する。
このように3回の”出会い”のあったクーデンホーフ=カレルギー光子と筆者の縁である。筆者は常にその時はピンとこなくても「いつか繋がるかもしれない」と思いつつ、写真を撮ることがある。それが役立った一例だ。
戦前のウィーン総領事館にて 前列左より山路章総領事、奥山榮子、山路澄子、一人おいて綾子さん、
<青山家と骨董>
グーテンホーフ・カレルギー・光子を扱った別の番組で吉永小百合は
「(渋谷の)青山通りは、広い土地を持った光子の実家の青山家に由来するとも言われている」と述べている。
筆者が興味を持ったのは特に青山家と骨董の関係である。
冒頭光子の父親青山喜八は東京市牛込区で骨董品を扱う店を営んでいたと書いた。そして美術評論家で、骨董品の収集家、戦後の日本の文壇のパトロンであった青山二郎の母親と光子は従姉妹であったという
こうしてふたりは骨董で繋がるが、筆者が気になるのはもう一人、青山三郎という人物である。彼に関する情報は非常に少ないが、戦前からパリで古美術商を営んでいた。
1938年に発行された『あみ・ど・ぱり』という雑誌には次の様に書かれている。
マルセイユの笠戸喜八氏と共に、フランスにおける2人の日本人成功者と言われる人にパリの青山三郎氏がいる。青山骨董店というよりも、青山日本美術博物館と言った方が適切。黙々としてこの大をなし、黙々してその功を誇らず、日本人には珍しい存在だ。
住所は11, Quai St. MIchel Paris, (6)である。
1944年8月、パリが連合国によって解放されるので、日本大使館の指示で日本人は多くがベルリンに避難したが、彼はパリに残り、そのままフランス警察によって拘束された。そして戦後もパリに残り、1973年に亡くなる。
青山三郎は二郎(1901年生まれ)の弟かと推測したが、生まれは三郎(1892年生まれ)の方が前であり違う様だ。しかしフランスまで来て骨董を扱う青山三郎も、骨董商の青山一族のひとりの気がしてならない。
完
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本編に関連する『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』はこちら




