昨年『バチカン機密文書と日米開戦』(津村一史)という本が朝日新聞の書評欄で紹介された。朝刊に載っていて、朝6時半に自宅から川崎市の図書館に申し込んだら、すでに2人が予約していて、筆者は3番目であった。彼らも書評を見ての申し込みであろうか?という訳で2ヶ月弱待って、ようやく借りることが出来た。
<カトリック築地教会>
先日「駐日ローマ教皇庁大使館の建物」として三番町の旧味の素の鈴木忠治邸を紹介した。その際、ここは戦後の1950年から大使館として利用したことが判明した。「ではその前は?」と思っていた所、この本にそのヒントがあった。
そこからいくつか引用し、筆者の調査を添える。最初にお断りすると、参考にしたこの書物はタイトルの通りで、こうした公使館の住所の変遷は主題ではない。よって本編はそれを補うものを理解してお読みいただけると幸いだ。
「1919年に、在日ローマ教皇庁使節館(以降バチカン公使館)は設置された。京橋区明石町の大司教館跡(内?)に建てられた」
→日本とバチカンで正式な国交が成立したのは1942年である。しかしその前から実質的なバチカンの代表機関ががあった。
そしてこの大司教館があったのは、築地のかつての居留地に今も残るカトリック築地教会である。早速訪問した。
聖堂は1874年に建てられたが、関東大震災で焼失し、1927年に新しいデザインで再建され現在に至る。再建からも100年近く経ち、東京都選定歴史的建造物に認定されている。
現在のカトリック築地教会
カトリック築地教会は東京で最古のカトリック教会で、東京大司教区の司教座(教区の中心となる教会)が置かれていたが、1920年東京大司教館が築地から関口教会構内に移転する。その空いた大司教館(レジデンス)にバチカン公使館が入ったということか。
教会内の説明パネル(下)によると明治時代は中央の天主堂に対し、左側の建物が司教座であった。バチカン公使館が置かれた場所であろう。右側は神学校であったがどちらも現存しない。
再び『バチカン機密文書と日米開戦』からの引用である。
「1933年にローマ教皇使節4代目のパウロ・マレラが就任。この大司教館に勤める。
45年4月14日、司教館の建物は(アメリカ軍の)空襲で焼け落ちる。
45年12月にマレラは麻布区新龍土町12番(現在の六本木7丁目4番)の旧ビルマ公使館に入り、戦後処理」
→当該箇所からはパウロ・マレラ バチカン公使は1933年に赴任してから、1945年4月にカトリック築地教会の司教館が焼け落ちるまでそこにいたと解釈できる。しかしカトリック築地教会は空襲の大きな被害は受けなかった。
近くには聖路加病院がある。これはアメリカ聖公会が建てたものであるから、そのあたりには爆弾は落とさないであろうとは、当時からまことしやかにささやかれた。
よって筆者はそれ以前にどこかに移転したはずと考えた。
調べると外交史料館の史料に、マレラ公使が日本の外務省に送った手紙が残っていた。次のような内容である。
「野村吉三郎外務大臣宛 1939年12月27日付
1月5日入港の日本郵船筥崎丸にて本使節宛に着荷の予定。
無税通関をよろしくお願いします。
荷受人 駐日羅馬教皇使節 ポール・マレラ
荷物 書籍入り箱1個
ローマ教皇使節 代理 田口芳五郎」
特別に荷物を通関してほしいという依頼で、正式な国交樹立前に外交特権を受けていたことがここからも分かる。
日本語でこの手紙を書いた田口芳五郎は、この頃カトリック新聞初代社長で後に大阪大司教となる。
次も外交史料館からの資料である。
「避暑のため(マレラ使節は)1938年8月1日午前10時11分、両国駅発、千葉県長生郡一の宮町に赴き、同地の土井辰雄別荘。(カトリック東京大司教区の初代日本人大司教となり、日本人で初めて枢機卿に任ぜられた。)に滞在中にして同月10日頃機構の予定なり」
他の大公使は軽井沢、日光に避暑に向かう中、千葉県に向かった。バチカンからと思われる秘書がひとりの公使館では、日本のカトリック関係者がいろいろ協力した様だ。
<新龍土町12>
そして今回注目すべき点は、手紙の封筒に書かれた公使館の住所が、「麻布区新劉度龍土町12番地」となっていることである。
つまりここが戦時中の使節館(公使館)の住所であった。正確にいつからかこちらに移ったのかは明確ではない。しかし1945年12月より前、戦前に新龍土町12番に移ったと言えそうだ
新龍土町は今は存在しない地名であるが、なかなか興味深い街であった。場所は現在の六本木7丁目辺りでミッドタウン前の道路を挟んだ向かい側から、国立新美術館までである。2・26事件に関与した歩兵第3連隊兵舎があり、連隊の建物の一部は「国立新美術館 別館」として保存されている。
現在西麻布にある「龍土軒」は、フレンチの草分で創業は1900年といわれる。そしてかつては同じ新龍土町12番地にお店があったという。昭和10年代の「龍土軒」の包装紙によると、立派な一戸建ての2階建ての洋館造りだ。時期も重なるが、かなり大きそうな建物なので、そこに間借りしたといえようか。おそらく龍土軒も間借りではないか。
又過去には他の外交官も同住所に居住している。
1933年 カナダ公使館商務官補 A.・キース・ドウル
1938年 オランダ公使館付き武官 海軍大尉 ヘンドリック・ボス など
よってここは外国人向けのアパートでなかったかとは筆者の推測である。
筆者が何度か話を聞いて、本で紹介したドイツ人ヘンリー玉置家も戦前新龍土町に住んでいた。
歩兵第3連隊兵舎の建物を利用した国立新美術館 別館
カトリック築地教会に話を戻すと、1923年の関東大震災で
「この時、ローマ教皇使節の仮使節館として使用していた旧大司教館をはじめ、教会付属の建物はすべて焼け落ち、築地教会はガレキの山となる」とある。(築地教会ホームページ)
その後まもなくして天主堂は再建され、今の姿になるが、旧大司教館は触れられていない。主人も不在ゆえに再建されなかったのではないか。つまり震災後にバチカン公使館は場所を移したかという仮説も成り立つ。
教会内には右側に小さな資料室があり、震災前の教会の遺物も展示されている
この後、第5代使節マキシミリアン・ド・フステンベルグの時代の1950年9月に千代田区麹町三番町9-2に公使館は移転となる。そして2024年9月30日に千代田区四番町に移転し三番町の建物は2025年夏までに解体となる。
長い話をお読みいただきありがとうございました。
なおこの話はまだ続きます。次は、今回引用した本『バチカン機密文書と日米開戦』の核心部分に入る予定です。
三番町の公使館
駐日ローマ教皇庁大使館の建物 パート1はこちら
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