イタリア大使であった天羽英二は1940年5月19日、ナポリで日本からの出張者を出迎え、

「(日本からの遣伊使節団を乗せた)榛名丸(ナポリの)埠頭に入港しつつあり。佐藤答辞」と日記に残した。筆者はこれを私の『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三編』の中で紹介した。

 

その使節団の政府代表の小林一三(東京電燈会長で後に商工大臣)がこちらも日記に、この榛名丸の日本出航からナポリまでの様子を残していることを発見。本編ではそれを紹介し、筆者の解説を加える。

 

小林は実業家で政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループの創業者で、宝塚歌劇団を創り上げた人物としてよく知られている。

 

また使節団の派遣に関し、次のような記録が残る。

「日伊友好と経済関係の緊密化を主たる目的として,佐藤尚武元外相を団長とする使節団のイタリア派遣が決定した。同使節団の派遣に際して外務省は,この機会にイタリア側に対して『何等かの政治的ヂェスチャー』を示す必要性があると認識していた。

 

そこで外務省は,将来にわたる両国関係の強固な結合を強調したムッソリーニ首相およびチアノ外相宛メッセージを佐藤大使に携行させてイタリア側の態度を打診することとなった」

 

1940年4月10日

10時に職員及び宝塚生徒一同の壮行会に出席する。そして電車で神戸に向かう。

12時から東亜ホテルで神戸商工会議所日伊貿易協会の歓迎会があり、佐藤団長の挨拶で乾杯、14時に榛名丸に乗船する。見送りは多数で東京からも新井社長、山田軽金属専務らが駆け付けた。そして15時に出航する。

→当時の”洋行”は、宝塚の全校生徒が壮行会を行うほどの大きな出来事であった。

また欧州航路の船は横浜出航も15時である。見送り他でこの時間の都合が良いのか。

 

4月11日

朝9時に門司港に着く。下関宝塚劇場を一巡し、山陽ホテルで昼食、夜は門司の三宜楼における市長及び商工会議所会頭の招宴に列する。8時発のランチ(小型の船)にて船に戻る。

→横浜を出港した船は、名古屋、大阪、神戸、門司と寄港し、乗船客を拾ったことはすでに紹介した。(こちら

門司港は港が浅いのか、大型船は接岸できなかった様で、ランチを利用している。

 

左右の両窓、かまびすしい石炭の積み込みが朝から続く。聞くところによれば、往復の全量約3500トンを積み込むとの事。時局の折から、やむを得ない作業との事だった。

→通常は寄港する港で石炭を積み込んだ。インドでは蟻のように並んだ人間が、石炭を担いで積み込んだのを、船客の一人が覚えていた。

 

4月12日

正午過ぎに門司港を出港する。

一行は遣伊特命全権大使 団長 佐藤尚武。(その後終戦まで駐ソ大使)

以下主な名前を挙げると

政府代表(東電会長) 小林一三 (日記の著者)

顧問 (東洋製缶専務) 高碕達之助 (満洲重工業開発総)

内閣情報部書記官  本野盛一 (駐フランス参事官)

外務省事務官    金山政英 (駐バチカン代理公使)

→括弧に入れたようにメンバーの多くが戦争中、海外で活躍する。

 

4月16日

船内発行のニュース(新聞)またはラジオによる貧弱な報告。

→船は無線で僅かながらも日本のニュースを受け、船客に提供した。

 

5月18日

さすがに地中海で相当の揺れがあるので、不愉快だ。

9時半打ち合わせ会。五百旗頭先生から伊太利組合の話があった。戦況のラジオとニュース。ドイツはマジノ線を突破して侵入したと言い、連合軍は反撃していると放送しているとのこと。

→5月10日にドイツ軍はオランダに侵攻し、17日にオランダは降伏する。

 

6時半、喫煙室にて使節団主催にて一等客全部をお招きして、カクテルの会を開く。

7時、食堂はさよなら晩さん会にして、船長のお心づくし至れり尽くせりの大賑わい。

→記念写真などから全て、一等客は一等客のみでイベントが行われた。

 

5月19日

8時半着。波止場は歓迎の官民雨に濡れて大混雑の様相なり。

→ここで冒頭の佐藤団長の答辞が述べられた。

この後、日本郵船はスエズ運河を通らずに、アフリカの喜望峰周りで"Keep the Line"のモットーの元、路線を維持するが、半年ほどすると欧州航路は全面休止となる。

 

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