書籍『バチカン機密文書と日米開戦』(津村一史)に触発された第4弾である。

バチカン大使館の箱根疎開と、それに次いで戦時下の「富士屋ホテル」の状況について書く。

 

<大使館の疎開>

 

津村氏がバチカン国務省文書館で発見した文書の中に、第4代駐日ローマ教皇使節パウロ・マレラが、本国の国務長官代理ジョバンニ・モンティーニに宛てた手紙があった。

その一つは1944年12月12日付けである。返信はドイツ敗戦後の翌年5月18日に「(12月)12日付け書簡は受け取った」とだけの電信であった。
 

→筆者の補足である。返事が来るまでに5か月との事で著者もいぶかしがるが、戦時中は日欧間の郵便は機能していない。ごくまれにソ連が通過ビザを発行してシベリア鉄道で横断出来た、中立国スウェーデンなどの外交官がいた。

 

手紙は彼らに託して本国まで運ばれ、そこからさらに転送、もしくはまた人によって運ばれた。よってこのくらいの時間がかかることがほとんどで、届いただけでも本当に幸運であったというべき貴重な手紙である。外交官の場合が荷物は調べられなかったから、比較的自由に、そして電報と異なり詳しく書くことが出来た。


そして手紙には次のようなことが書かれていた。
1 東京から2時間以上離れている山間部に引っ越した。(箱根町強羅に疎開した)

2 私はこれから週に一度は東京に行くつもりです。まだ(東京から)避難できていない聖職者たちはみんな、必死に避難場所を探しています。
3 焼失を防ぐために大切な書類保管棚を持ち出した。(疎開させた)
4 (日本軍に捕まっている)捕虜関係の仕事は順調に進んでいます。

 

→筆者が補足すると次のようだ。

1944年8月ごろ外務省が外国公館にも疎開を指示した。疎開先として枢軸国外交官は箱根、河口湖、中立国は軽井沢であった。中立国が本国に送った情報は、現地で報道されるとそれはアメリカ他の敵国もすぐに知ることになる。よって枢軸国と中立国の外交官同士が接触しない様に気を遣った。

 

そこで興味深いのはバチカンはドイツ、イタリア、ハンガリー、満州国、タイ、などと同様に枢軸組であったことだ。マレラ公使は秘書ピエル・ハンベルクロ―と2人で強羅1320番に疎開した。現在の強羅公園の辺りか。

バチカンは日本の傀儡国家である満州国を最初に承認した国と言われている。日本が枢軸国と捉える要素があったようだ。

 

ソ連大使館が疎開した「強羅ホテル」は現在新しくなり「季の湯 雪月花」。

中立国であったソ連は軽井沢に疎開したが、後に独自に箱根に移った。

 

近くには横浜のカトリック系のインターナショナルスクール、セント・ジョゼフが疎開し、フランス人の18名の教師は強羅地区の公園ホテル(現存せず)に暮らした。そして5名の宣教師は1320番、白百合学園内に疎開した。バチカンの2人も1320番であった。同じ番地なのでバチカンも白百合学園内に疎開した気もするが、そこはもう少し調査が必要であろう。いずれにしても箱根の山中で、カトリック関係者が交わったのであった。

 

さらに調べるとこの白百合学園が函嶺白百合学園の名で今も続く。そして住所は「強羅1320」、設立は1944年である。バチカン、セント・ジョゼフの疎開と同じタイミングだ。

 

聖職者たちは疎開場所を探すのに苦労をしていた。

1944年の夏、「横浜のジェネラル・ホスピタル(一般病院 山手82番)を経営していたフランシスコ会のシスター達は、3日のうちに立ち退けと言われ困っている」と聞いて、長谷川登美子は自分らが住めなくなるにもかかわらず、軽井沢の別荘を彼女らに貸した。(『続続心の糧(戦時下の軽井沢)』

「捕虜関係の仕事」について著者は本国へ帰す仕事と想像しているが、米英から届けられた慰問品の配達や、収容所を訪問して捕虜たちがジュネーブ条約に従った正しい扱いを受けているかをチェックする事であった。スイスやスウェーデンと同様である。

 

もう1通は終戦から一か月後、1945年9月15日の手紙である。こちらの返事は10月13日に届く。

連合国の軍事郵便とともに航空機で運ばれたか。

 

総じていえば箱根に疎開をして本国との通信もままならなくなった中で、勤務状況を報告したとても興味深い手紙だ。

 

<小林一三日記より>

 

箱根の外交官の疎開場所の筆頭は宮ノ下の富士屋ホテルであった。(バチカンは異なることは書いたとおり)

同ホテルに関しては「箱根にドイツ人の痕跡を追う2 富士屋ホテルの疎開者」としてすでに紹介した。

 

最近、阪急東宝グループの創業者である小林一三(いちぞう)が終戦近くに、大坂から上京すると富士屋ホテルをよく利用していたことを、新聞で知った。東京は永田町に住まいはあったが、空襲を恐れてもっぱらホテルに宿泊した。彼の日記から抜粋する。

 

1945年1月22日

(午後8時半小田原着 富士屋ホテルより迎えの自動車で今村君と共に9時ホテル着。(中略)

朝夕は暖房ありとの事、ホテルが外人連6,70人並みの疎開の紳士方にて相当賑わし。

→第2次近衛内閣で商工大臣に就任した小林ゆえ、ガソリン統制の厳しい終戦の年にも車の迎えがあった。数十名の「外人連の疎開の紳士方」とは専ら先に挙げた枢軸国の外交官である。

 

1月23日

ホテルのロビーにいるといろいろ参考になる話が多い。比島の戦況は新聞記事より(以上)知らないが、事情通はたいがい悲観している様だ。困ったことだと思う。

→「事情通」はやはり外国の外交官であろう。禁止されていた短波ラジオでアメリカの放送などをこっそり聴いたりした情報か。

 

富士屋ホテル本館入口付近。

この位置でまさに日記の書かれた時期の1945年1月1日に撮られた宿泊客の集合写真が残っている。
白抜きの文字で「大東亜戦・第四周年の春を迎えて・富士屋ホテル」と写し込まれている。

 

2月3日

ホテルの常務室にて宮城野に有名なそば屋の特製手打ちそばを御馳走になる。(中略)

このホテルに横浜のある金持ちの未亡人が5,6歳位の男の子を連れて、時々泊まり込む。必ず外国人が後からついて来て泊まる。

→小林は富士屋ホテルの社長とも懇意で、手打ちそばなども楽しめた。また枢軸国の存亡の危機の時代にあっても、女性の尻を追いかける外交官はいた。小林は専ら外国人に現を抜かす日本女性をとがめている。

 

2月4日

昨土曜日の夕方から大分お客様が増加してきた。南京政府の大使並びに武官来泊。ホテルは大賑わいである。

→汪兆銘の南京国民政府を指す。彼らは平日はまだ東京で勤務し、週末のみ箱根に来たか。

 

3月10日

明11日の議会出席のため(午前)9時半の汽車にて山脇君同行(梅田より)東上。小田原で降りて、富士屋ホテルの一泊の予定。翌7時半の電車(箱根登山鉄道)にて出発。新橋11時過ぎ着。徒歩にて議会(国会)に出席。

夜7時半、ホテルへ戻る。

→小林は貴族院勅選議員であり、国会へ呼ばれることがあった。

彼が出発する前夜の9日から10日未明には東京大空襲があった。下町を中心に約10万人が犠牲になったとされる。

情報の統制があったのか、彼はその事実を知らずに東京に向かった様だ。

また東海道本線は大空襲の翌日も動いていた。被害に遭ったのはまさに下町ばかりであったのであろうか。

 

こうして戦時下の富士屋ホテル、東京の様子を垣間見ることが出来た。

 

バチカンシリーズをお読みいただき、誠にありがとうございます。今回でこのシリーズは終わる予定です。

 

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