東横線の車内の広告に御殿場アウトレット行のバスの広告を見つけ、何気なく読むと面白い事に気付いた。
日吉駅を8時10分に出発するバスは、御殿場プレミアム・アウトレットに10時35分に着く。自分は車に乗らないので、それが時間がかかり過ぎかどうかは判断できなかった。しかし日吉を出るとセンター北駅、たまプラーザ駅、市ヶ尾駅に寄って、市が尾発が9時20分、ようやくそれから高速に乗り御殿場方面に向かうことが分かった。つまりお客さんを何カ所かでピックアップすることに1時間強、その後目的地までも1時間強である。
これを見た時、やや唐突ではあるが筆者はかつて書物にもした、戦前の日本郵船の欧州航路を思った。今から80年以上前の1938年の配船表を見ると、7月30日に横浜港を出帆した「照国丸」は最終目的地ロンドンに到着するのが9月15日、45日以上の船旅である。
しかし細かく見ると、照国丸は横浜を出た後、名古屋、大阪、神戸、門司と各港に寄って門司を発つのが8月5日、実質的な航海に入るまでにちょうど1週間を要しているのである。細かく見ると名古屋、大阪は入港と同じ日に出航、神戸が2泊、門司が一泊である。欧州航路の船は貨物も運ぶ貨客船であった。神戸と門司では本格的な貨物の積み降ろしもあったからであろう。
そして名古屋寄港は1932年から、大阪は1930年から始まった。
まさに先のアウトレット行きバスと同じだ、いや先輩だ。
当時の日本郵船欧州航路の時刻表
そして欧州の入り口といえるイタリアのナポリに着くのが9月6日である。つまり門司からナポリまでなら33日の航海である。それもあり欧州航路を利用した人の回想を読むと、航海は30日と書く人から45日まで振れている。
ではこうした寄り道の多い船旅を、利用者はどのように対応したか?この寄り道をフルに活用したのが加賀山之雄だ。加賀は1927年に鉄道局(国鉄)に入社し、1949年4月には国鉄総裁に任命される。彼は1936年、在外研究員として欧米の視察を命じられる。
赴任に際し豪華船好きの加賀山は「どうせ乗るなら豪華船の照国丸か靖国丸」ということで、4月12日に横浜出帆する照国丸に決める。先に紹介した照国丸の配船表の1航海前の欧州行きだ。
経理局からは、会計年度内の3月中に日本を離れてくれ、ということで同行の三原と山川は3月30日に横浜を出帆する筥崎丸で見送ってもらい、神戸で照国丸を待つといういささかトリッキーな欧州行きだ。
一方加賀山はどうしても横浜から照国丸でなければだめだと言って交渉し、経理に4月12日出発を納得させた。豪華船好きには譲れない船の選択であった。この年には2・26事件も発生し、世の中は戦争に向けだいぶ不安定になっている。
当時の日本郵船横浜支店(現日本郵船歴史博物館)
そして12日に大勢に見送られ横浜港で乗船後、翌13日には名古屋で下船し、当地の叔父に会い、その後福井に行く汽車に乗る。14日は福井の姉の家に泊まり、15日は故郷の大野で、町の有力者の声掛けで料亭兼旅館において大送別会が行われた。16日には京都へ出て親戚を訪ね、夜は友人と待合で飲む。そして17日の朝神戸へ向かい、多くの親戚、知人の見送りを受けた。
最後の門司港でも白井穐丙と芥川治が清見丸(港と船を結ぶ小舟のことか)で迎えに来て下船、(現地の国鉄)全幹部が出席してお別れの昼食会をしてくれた。18日の午後3時に出帆して玄海に出た。ここから32日間の船旅である。(『鉄路の心 加賀山之雄』他より)
このように船の寄り道時間を有効に利用した加賀山だが、ここから分かるのは、当時の洋行は一大行事で親戚、友人の多くが今生の別れとばかりに別れを惜しんだことだ。そして当時すでに船も鉄道も非常に正確に運行されていたことも分かる。1本の汽車でも運休になったら計画は台無し、船に出帆前に戻ることも危うかったであろう。
一般には家族連れは横浜から乗船し、出張の男性は神戸まで鉄路を利用した場合が多い。
こんなことを考えた、御殿場行きのバス広告であった。
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