第二次世界大戦終結後、敗戦国民となったドイツ人はGHQの手で本国に帰国することになる。1947年2月、ナチス寄りと判断された人物の強制送還で211名が軽井沢駅から列車に乗る。第2次は8月、強制送還17名、外交官送還31名、希望送還85名の計133名であった。(『長野県警察史』より)
カメラマンの幅北光は、彼らが送還される現場を軽井沢駅で見ている。筆者はこれまで白系ロシア人ジヨージ・シドリンが撮影した写真は見たことがある。駅前に荷物を持つドイツ人が集まり、書類を片手にアメリカ兵が指差しで指示を出している貴重な史料だが、日本人の体験談は初めてた。ここでは彼の著作『軽井沢ものがたり』を参考にしつつ考察する。
駅ではアメリカ第8軍の兵隊が、ドイツ人に色々と指示を出していた。彼らはこれから待ち受ける長い旅、荒廃した故国と多くの不安を抱えていたはずであったが、皆揃って征服者のような逞しい顔をしていた。大部分は幅にとっては初めて見る顔であった。
⇒引き揚げるドイツ人にはもちろん夫人、子供も含まれた。
10年ほど前、ドイツからのヒトラーユーゲントが訪問した際は、駅頭には1000人の人間が出て、彼らを歓迎した。それから短い間にドイツ人は勝者から敗者に転落した。
各地から集められた戦争犯罪容疑者のナチス・ドイツの容疑者が軽井沢で捕らわれ、缶詰になっていた。愛宕山の別荘地はこうしてドイツ人村と化していた。
今軽井沢駅に引き出されてきたこの人達は堂々と肩身を張っている。みすぼらしい格好を見せまいとしているようであった。
⇒ドイツ人は敗戦国民だからと卑屈になることなく、堂々と軽井沢を引き揚げた。軽井沢では終戦の年45年の10月25日に、12名のドイツ人が逮捕されている。(「終戦直後、軽井沢で逮捕されたドイツ人」参照)
各地から集められたというのは当時は風評でそのように伝わっていたのではないか。実際には帰国時には巣鴨の拘置所に日本人戦犯同様に囚われていたドイツ人も数名いたので正確ではない。また当初彼らは万平ホテルに収容された。しかし引き揚げ時の住所を見るとまとまって住んではおらず、旧軽の広い範囲にわたって住んでいる。

1910(明治43)年当時の姿に復元された旧軽井沢駅舎
やがて上りのホームに臨時の6両編成の列車が入る。見送る残留組のドイツ人の同胞はいなかった。ひとりのドイツ人がホームに立つ幅を見送りに来た人間と思い、寄って来て、
「機会はきっとある、この次の時に米英を懲らしめ、無念を晴らしましょう」と言って幅の手を痛いほど強く握った。
⇒「次の戦いでは必ず勝とう」とは戦後しばらくの間、ドイツを訪問した日本人に投げかけた言葉であった。ドイツはすでに2度負けているにもかかわらずである。日独より早く手を挙げ降伏したイタリアを揶揄して「次はイタリア抜きでやろう」というバリエーションもあった。戦後もドイツ人は日本人には親近感を抱いていた。
こうして駅助役(後年の駅長)、RTO(GHQ鉄道司令部)担当駅員2、3名と幅が送還列車を見送った。
飢餓に苦しみ、将来の名状しがたい身の恐怖にさらされながらも、悠然と引き揚げる光景を見て、幅は逞しいゲルマン民族の精神を一人ひとりの顔に見た。それは同地でドイツ人ともいろいろ関わってきた幅にとって、最も印象的な出来事であった。
冒頭に書いたように幅はカメラマンで、1930年~70年頃に撮影した軽井沢の写真約1000枚が遺族から寄贈され、軽井沢高原文庫に保管されている。その中にはこの時の写真もあるのであろうか、、、
メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら
『続続 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら
