以下の話はさらに詳しく書籍に収められています。

『続続 心の糧(戦時下の軽井沢)』 

 

『国際建築』は宮内嘉久編集事務所が編集し、美術出版社より出された雑誌である。国会図書館には1928年から67年まで収蔵されている。恐らくそこで廃刊となったのであろう。

今日ほとんど知られていない様だが、特色として記事のタイトルは全て英語も表記されている。外国の建築物を多数紹介する一方、海外に日本の建築を紹介する内容的にもなかなかハイクラスな雑誌であったようだ。

 

1935年10月号に「軽井沢のCatholic Church」という記事が載っている。

Catholic Churchとはアントニン・レーモンドが設計し、今日も軽井沢の観光名所の一つとなっている聖パウロ教会の事である。

1935年の姿。国会図書館蔵(許可を得て掲載)

 

アントニン・レーモンドはチェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。

完成した当時の建物は今より丸みを帯びた印象である。屋根は栗木材、入り口周りの柱は澤胡桃、右手の壁は火山礫コンクリートであった。

 

現在の姿(筆者撮影)

 

レーモンド事務所の杉山雅則が記事を書いている。

「現場で準備が始まったのは6月の終わりであった。何とかして8月15日に開堂したいというのが依頼主の希望であったし、大工も12、3日が地元のお盆なのでぜひ仕上げて帰りたいと笑って言った。彼らは皆日光から来ていた。材料もほとんど日光からであった。後述の素材は軽井沢辺りではなかなか手に入らなかった」

 

レーモンドは1928年、日光中禅寺湖畔にイタリア大使館の別荘の別荘を建てている。その時の繋がりから日光の大工、材料を使用という事になった。

屋根は栗木材で、壁及び塔の部分は杉の羽目板張りである。こうした素材は軽井沢では手に入らなかった。杉は日光杉であろう。聖パウロがカトリック教会という事もあるであろうが、軽井沢の他の教会、ユニオンチャーチ、ショー記念礼拝堂の壁の下見板張りとは異なる。

日光中禅寺湖畔にイタリア大使館の別荘(筆者撮影)

 

ヴォーリズ設計のユニオンチャーチ。下見板張り(上下がお互いに少しずつ重なり合うように、横方向に張ること)。聖パウロ教会は縦方向の杉の羽目板張り(筆者撮影)

 

杉山の文章の続きだ。

「お盆も近くなってくると、建物の周りには芝生を植え始め、大工たちも本腰になってくる。レーモンド夫人は教会正面の側壁に飾る自作のコンクリートの聖パウロの像の彩色に忙しく、レーモンド氏は現場に行く度数が急に増して、人の足を止めて出来上がりつつある塔を見る姿もめっきり多くなる」

杉山はこの教会を「気持ちの良い寺」と書く。そして「レーモンドの設計になる寺は写真に撮ってみると別段新しさのない『村の寺』の様に見えるが、実際に見ると材料の活かし方や感覚の上に新鮮な味が伺える」と書く。今日当時の写真で見ても美しいと思う教会だが、今から90年ほど前に「別段新しさのない」とは、建築家は筆者の想像力をはるかに超えた想像力である。

 

献納式の前々日だかに、レーモンドは使用人に墨壺を持ってこさせた。そして目につき易い角材の切り口にAnno Domini 1935(西暦1935)と記名しながら杉山の方を見て微笑んだ。

内外の飾り付けが終わり、藁縄の椅子を並べ、周囲の片づけが終わったのは開堂の前夜で、夜が白む頃であった。

「2年、3年経ち、色が枯れて寂びの出るのが待たれるような気がする。きっと屋根は漆黒く杉の壁は銀灰色になるに違いない」と最後まで謙虚なレーモンド事務所の人間だ。

正面側面の詳細。(国会図書館蔵)「Anno Domini 1935」の文字が読める。この文字は今日も残っている。

 

平面図も掲載されている。この軽井沢177番には終戦時に5人の外国人司祭が疎開したことは筆者の以前の調査から分かっていた。しかし教会に寝泊まりしていたとも思えず謎の部分であった。しかしこの平面図を見ると教会の後ろに「屋根付き廊下」に続いて司祭館がある。そこには「居間兼寝室」「女中部屋」などがある。こちらで彼らは生活していたことが分かった。この司祭館は今は少し別の場所にある。

 

更に詳しい内容は書籍でどうぞ。

『続続 心の糧(戦時下の軽井沢)』

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