先に紹介したジョン・シコシと並んでもうひと家族、横浜に暮らしたのハンガリー人がジョージ・コモル一家である。今回3代目の話を加え、修正を加えたものを再アップする。
明治30年代、海岸通りのひとつ裏通り、外国人が水町通り(ウオーターストリート)呼ぶ通りの37番に、日本の美術品を扱うクーン・アンド・コモル商会という店があった。
店主はS・コモルというハンガリー人で、英語の達者な番頭長谷川幸次郎が番頭をしていた。コモル商会には8歳になる男の子ジョージ(George Komor 1888-1976)がいた。本編で取り上げる人物である。
彼は1888年ブダペストで生まれ、ちょうど1歳前に、父母と共に横浜にやって来た。ジョージは日本語をいち早く覚え、日本の習慣も知り、日本の友達も増えた。成人して父の美術骨董商を継いだが第一次大戦の勃発で輸出が振るわなくなり、コモル商店は大正14年(1925年)一時閉鎖した。
しかしアイデアマンであるジョージは貿易会社、「コモル・トレイディング社」を設立し、当時まだ舶来品しかなかったポケットライターを、日本に適当な工場を見つけて初めて製造させた。
大正12年の関東大震災で妻を失い、店も焼失したが、いち早く立ち直り貿易商を再開した。彼の商人哲学は「どこのメーカーを訪ねても笑顔で迎えてもらえるような信頼関係を日頃から作っておけ」であった。息子のジョンにもこの哲学を叩き込んだ。外人墓地に眠る。(『横浜外人墓地』生出恵哉より)
1941年のジャパン・クロニクルにはコモル・トレイディング社は載っていない。それ以前に閉鎖したのであろう。
外事月報の1944年8月号には住所が横浜の本牧元町290で「無職」となっている。また戦争の後半はコモル一家は足柄郡宮城野村に疎開する。終戦時、ジョンは6歳で、ジューニア・コモル(40歳)という女性もいた。関東大震災で妻を亡くしたという先代だが、再婚したのであろうか。
決して数の多くない横浜のハンガリーの民間人は、戦時中そろって本牧元町に住んでいる。すでに紹介したジョン・シコシ一家と今回のコモル一家、そしてミツ・エルケットだ。
ミツ・エルケットに関して筆者が見つけたのは、日本人でハンガリー人エルケット氏と結婚していた。アプカーの父が、獄中から日本語で書くしか許されなかった手紙を、ミツはアプカーの残る家族のために翻訳してあげた。
ミツ・エルケットに関して筆者が見つけたのは、日本人でハンガリー人エルケット氏と結婚していた。アプカーの父が、獄中から日本語で書くしか許されなかった手紙を、ミツはアプカーの残る家族のために翻訳してあげた。
1984年の雑誌「勤労よこはま」に、ジョージの息子ジョンについての記述を見つけた。
「外国人の見た我が国の勤労者像」という特集で、コモル・ジョン・ジョージさんという名前で、
「休まないでよく働きますね」という見出しの付く記事が載る。
それによるとジョンは(株)ユナイテッド・インクコーポレイテッド代表取締役代表、横浜生まれのアメリカ人、現在までのほとんどを日本で暮らしている。戦後アメリカ国籍を取得したようだ。それは1956年のハンガリー動乱で、沢山のハンガリー人が祖国を逃れたのと同じタイミングか。そして読み方もジョンと英語式になった。
本文には次のような応答がある
―日本で仕事を始めて何年になりますか。
25年になります。私は横浜の本牧で生まれ、貿易の仕事を始めて私で3代目になります。
住所は先のジャパン・クロニクルと同じ横浜、本牧である。ジョンは先に紹介した、ジョージ・コモル(1888-1976)の長男で3代目である事に間違いない。また当時日本にいた筆者の知り合いのハンガリー人の話では、ジョンもセントジョゼフカレッジの出身である。
ハンガリーは第二次世界大戦では、ドイツからの圧迫で枢軸国に加わり、それがために同盟国として日本に滞在することが出来た。戦後はソ連に占領され共産国となるが、それに反対して1956年に動乱が起こったが、鎮圧される。大国の間で翻弄された東欧の小国である。
そして最後になるが、ジョージ・コモルこそが戦後山下町のビアレストラン「ザ・ホフブロウ」の初代のオーナーというのが筆者の調査の結果である。。記事はこちら

