ドイツ領事館総領事のゼールハイム(Dr. Heinrich Seelheim)の住まいは山手32番地であった。
 
1941年6月22日、ドイツがソ連と戦争を開始した、翌23日の午後2時、ゼールハイムはいつも通り午後2時に領事館に入る。記者の質問には全く答えないが、他の館員が
「あと2,3か月でソ連を打ち負かす」と高らかに語った。(読売新聞)
 
苦難の蘭印での抑留から日本に引き揚げたドイツの婦女子600人の内、42名のドイツ人は1941年7月15日夜7時12分、横浜駅着列車で横浜駅に到着する。
翌7月16日には
「横浜のホテル・ニューグランドのパール・ルームには日独国旗が掲げられ、在留ドイツ人引き揚げ同胞斡旋委員会心尽くしのサンドイッチと紅茶が待っていた。
そしてハインリッヒ・ゼールハイム横浜総領事が挨拶を述べた。」(読売新聞)
 
また領事館では毎月、領事の車のガソリンの申請をしないといけなかった。当時ガソリンは厳しい統制のもとにあったからだ。
 
揮発油購入証明書下付申請書
外務大臣 東郷茂徳宛
1942年8月19日 中区山下町51番地 ドイツ国領事 ゼ―ルハイム
9月分揮発油申請量 40ガロン(約160リッター)
領事館用品として使用する自動車のため
BMW 1939年製 セダンタイプ 50馬力 5人乗り
 
160リッターで当時の車では、どの位走ったのであろう。東京のドイツ大使は100ガロンの割り当てであった。神奈川県ではあとは中華民国とフランス領事館のみがガソリンの申請を行っている。
 
なお館員ヤン・クリスチャンスの所有する車はフォードV8セダンであった。敵国アメリカの車に乗り続けたことになる。
(外交史料館)
 
1943年に入ると枢軸側の不利が明らかになってくる。9月8日にはイタリアが連合国側と休戦条約を結び、戦線を離脱する。読売新聞神奈川版9月10日付けに次のような記事がでる。
 
「ただ、撃ちてし止まむ。 弱き者は去れ。伊の脱落。
ドイツ領事館 決然語るハイム総領事
 
この日山下町のドイツ領事館はいつもと変わった様子もなく、静かな雰囲気の中にあった。屋上高く掲げられたハーケンクロイツ旗が、青空にへんぼんと(原文ママ)揚がり、固い決意を象徴しているかのようだった。
 
ゼールハイム総領事も平常通り朝9時に顔を見せ、正午一旦帰宅して昼食の後午睡をとるという落ち着きぶり。午後は2時半から5時まで執務といつもと変わらぬ総領事である。」
総領事は食事は山手の自宅で取り、その後昼寝をするなかなか優雅な仕事ぶりであったことが分かる。
 
またドイツ版ウィキペデイアによれば、ゼ―ルハイムはドイツ大使館の悪名高き警察担当ヨゼフ・マイジンガーのもっとも重要な情報提供者の一人であった。毎週2回、大使館にマイジンガーを訪問し、見聞きしたことを1時間にわたって報告した。ゼールハイムは横浜のドイツ人の監視役であったともいえよう。
 
同胞人の監視に関しては横浜領事館では、管轄地区のドイツ人名簿より、一人一枚につきカードが作成されていた。そして住民の政治思想、言動が一目で識別できるように、ナチ党員、反ナチ的態度を示している者、態度不明者、ユダヤ系などの色別のカード分類を行い、管理していた。(内務省警保局編 概況 1942年より)
もっともこの時代を考えると、さほど驚くべきことではないかもしれない。
 
ドイツ人ジャーナリスト、アービッド・バルクは1944年8月1日午前5時に神奈川県警の5人の刑事によって逮捕された。妻エステレはアービッドの件をドイツ領事(ゼールハイム)に訴えた。日本によって捕らえられたドイツ人の不当性を訴えた。アービッドの書いた新聞記事は、送る前に全て日本の外務省とドイツの管轄部門の検閲を受けていた。さらに彼は第一次世界大戦でドイツのために戦った退役軍人だ。
 
しかし領事は日本政府の政策に介入できないので、アービッドの解放に協力できないと言った。後になってエステレは、ドイツ側がアービッドの逮捕を日本に依頼したことを知った。アービッドについてはこちら

 

終戦時、ドイツ大使館員の大部分は山梨県、勝山村富士ビューホテルに疎開していたが、ゼールハイム一家(妻と子供一人)はそちらには合流せず、軽井沢811番の別荘に暮らした。
 
ドイツ領事館は山下町51番地にあった。領事館の前は露亜銀行で、現在は結婚式場になっている。
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