戦時下山手の外国人
『横浜山手町今昔(いまむかし) 』の中で書いたように、1943年9月29日、山手を含む地域が絶対居住禁止区域に制定され、全外国人に退去命令が出された。
対象となった外国人は508家族、1227人であった。ドイツ人がほぼ半数である。彼らはほとんどが一般の人々であったので、歴史の本などには登場することはない。本編ではそういう人の中から、分かった事実を紹介していく。
エドムヘンリ・ガロア (フランス領事)
山手186番はランス総領事館で、同時に官邸であった。その総領事であったのがエドムヘンリ・ガロアである。
当時のまま残るとされる旧領事館の門。

1940年6月、ドイツ軍がパリに迫り、14日無血入城する。そのタイミングで、読売新聞の記者はフランス領事館を訪れる。そして15日の神奈川版に次の様な記事が出る。
「パリが落ちた。パリが、、、落胆はせぬ」の見出しに続き、
記者がパリ発特電を持って領事館を訪ねれば、エドム・ガロア総領事はいささか興奮しながら、
記者がパリ発特電を持って領事館を訪ねれば、エドム・ガロア総領事はいささか興奮しながら、
「祖国は決して負けぬ。戦争はこれからだという信念は捨てぬと前提にして次のように流暢な日本語で語る。(略)」との事であった。
ガロアは明治36年(1903年)に日本に来て日本語が流暢であった。総領事とすればこれ以上、語れることはない。誰に目にもフランス本国の苦境が明らかなこのタイミングで訪れる記者も、時局がら内心は、ドイツの勝利を確信した上で、意地悪な質問をしたのではないか?
領事館によれば、当時県下在留フランス人は98名であった。 ガロアは1942年9月分の自動車用として40ガロンのガソリンを政府に申請している。それによれば彼が乗っていたのは、パッカード・ツーリングセダン、5人乗りである。パッカードはアメリカの車である。戦時中に敵国アメリカの車が走れたのは興味深い。一方で彼は母国を占領するドイツの車に乗るのは、プライドが許さなかったであろう。
1942年、日本の外事警察はガロアの言動に注意、警戒している。
「時折東京に赴き水曜日会に出席して、大使館員その他在留フランス人と連絡。
上海駐在領事プレオンバールを自宅に招待して晩餐。その際、防諜の徹底した日本において、今日まで相当困難と苦労と危険を冒した旨漏らし、秘密裏に諸活動をなしている言辞あり。
今後動向に注意を要するものと認められる。」(『外事月報』より)
今後動向に注意を要するものと認められる。」(『外事月報』より)
先の退去命令で1944年6月、ガロアは渋谷区青葉町稲葉邸に移る。しかし8月、パリが連合軍によって解放されるとフランス人は敵国人扱いになり、多くが軽井沢に移動させられる。
アヴァス通信社の特派員であったロベール・ギランは、軽井沢でのエピソードを書いている。
「極東でおよそ50年暮らした元領事のガロワ老人が東京から持ち込んでいた。そして憲兵に不意に襲われる危険を冒して、数人でサンフランシスコ放送を聴いていた。」
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