言葉と仕組みの境界 | 野人エッセイす

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言葉と仕組みの境界・・

意味深な言葉だが同じ言葉でも理解の仕方によっては天国と地獄、人の運命をも左右する。

 

テーマ「言葉と仕組み」に長編理論を書いたのは2011年。

仕組みもまた言葉で表すしかないのだから、真意を理解していただくのは困難、そう思いながら書き続けた。

 

それから10年、毎月の講習会を通じてその溝の深さを痛感した。

言葉は常識の壁、学問の壁に塗り固められ、さらに言葉の魔力とでもいうか、自由な解釈・見解が付け加えられ、野人理論波及の最大の障害になり、思うように道理を伝え、理解していただくことが出来なかった。

 

まったく理論らしきものが見当たらない生命の分野に物理を持ち込めばそうなるのはわかっていたが、疲れ果てて講習会を断念した時期もあった。

わざわざ伊勢まで来てお金を使って、伝えられなければ申し訳ないと言う気持ちが大きく、それは今も変わらない。

 

野人ブログも講習会も転機を迎え、過ぎた過去を悔やまず新たな道を進むが、言葉と仕組みの境界、あらためて皆さんに伝えておきたい。

 

生きる上で最も重要な仕組みを簡単な言葉、さらにそれぞれの感性でまとめた代表的なものは「自然」「天然」「野菜」「健康」「治癒力」などだが、この認識の間違いが環境・健康・飢餓貧困問題を引き起こしたと言っても過言ではない。

 

これらは最も重要な物理学に匹敵するが、明確な理論も存在せず野放し状態。

これら自然界・生命体の物理的仕組みを解明してまとめたのが「協生理論」であり、応用したのが「協生農法」と「体調復元法」。

 

一般的に使われる「原因」「理由」などの言葉も野人の使い方とは全く異なる。

言葉ではそれで問題なく通用するのだろうが、原因・理由にはなっていない。

道理の「理」がないのだから野人にそう言われても仕方ないだろうな。

 

自然界の産物、大地の恵み、天然素材、自然環境に体に優しい、自然循環、国産・・など、本質とは関係がない矛盾した言葉は暮らしに氾濫している。

特に自然食品のコマーシャルはこれらで埋め尽くされているようだ。

 

漢方の生薬も昔は野山で採取していたが、商品化して量産すればそれも不可能。

野草酵素の野草も同じで、肥料で育てる畑草も野草とされている。

野菜も同じではないかな、養殖菜とすればわかりやすいのだが。

果物も肉も卵も乳製品も自然界の仕組みとは大きくかけ離れ、人間の都合と道理を優先した人間界の産物だ。

 

衣類が国産と外国産の差がないように、うなぎだって国産・外国産の差はない。

エサが同じなら何処で作ろうが同じ、理想的なエサを開発したのは日本人なのだから。

穀物野菜や果物も産地が有名だが、「作り方」が同じなのだから内容も大差ない。

 

人間は土も植物も作ろうとし、動物も育てようとした。

効率と均一を求めた結果、それらは健全と言えるのだろうか。

健全なら何故、土壌や野菜果物や家畜やペットに人間同様の「薬剤」が必要になるのか。

何故自然界には薬剤も肥料も必要なく、病不調が氾濫しないのか。

素直に考えれば気付きそうなことなのだが・・・

 

言葉と仕組みの境界・・

少しは気付いていただけたかな。

 

 

 

 

 

 

 

 
 
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