明智光秀 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。

歴史学者の磯田道史先生が、本能寺の変以降の明智光秀の行方を現地取材しました。アシスタントに女優に一級建築士でもある田中道子さん。

▼写真AC:ジュンPさん提供のフリー素材

先日はNHKで『決戦・アフター本能寺:秀吉 vs. 光秀 天下人への道』という番組があったばかりですが、内容もかぶることなく、歴史の奥深さを感じました。

 

1.本能寺の変:光秀の抹消された痕跡をたどる

山崎の戦いは、1582年(天正10年)6月13日
明智光秀と羽柴秀吉が天下をかけて争った合戦。
勝利した秀吉は天下人への階段を駆け上がりました。

負けた光秀に対する疑問

三日天下と言われますが、実際には十数日。
正親町天皇が光秀に京都の治安維持を任せたのです。
光秀が天下に登り詰める寸前、秀吉の中国大返し。
山崎の戦いで敗れた光秀は勝竜寺城へ退却。
光秀は人生最期の夜を過ごしました。
大津の坂本城へ逃げようとしましたが、道中で落武者狩りにあい、命を落としたようです。

光秀側の詳細を伝える史料は少ないのです。

乙夜之書物(いつやのかきもの)加賀藩の兵学者・関屋政春が1669年から、3年間で書き留めた3巻3冊にわたる書物。
光秀に関する重要な証言が残っています。

光秀はなぜ秀吉に負けたのか

恵解山(いげのやま)古墳
山崎の戦いの際に、光秀が一夜にして城を築いたという説があります。
古墳から発掘された光秀を狙ったとされる火縄銃の弾があります。
深い掘り込みや階段状になった場所など、城の構造のような改変が見つかっているのです。
恵解山古墳から西に100メートルの場所から、南北方向の堀の跡が発掘されました。
弾が届いても威力がない距離です。

光秀は秀吉の大軍を恐れるあまり、天王山に近い塚ではなく、離れた恵解山古墳を本陣にしたのではないか。
さらに、古墳の前方部から戦国時代の土師器皿が出土しています。
皿があったことから、出陣式で割ったやつではないかとされています。
都から撤退しなかったのは「天下」という縛りがあったと思われます。

宝積寺:天王山の麓で、秀吉の本陣が置かれた場所。
秀吉ゆかりの出世石:秀吉が腰を下ろして采配を振るったとされます
秀吉の目線に一夜にして建てた、三重塔があります。

萩原大輔先生登場
乙夜の書物の情報源はだれか。
光秀の家臣であった進士作左衛門は光秀最期付き従った7名のうちの1人。
その息子に話し、息子から関屋政春に話したようです。

山崎の後背にあたる天王山へは、松田太郎左衛門を差し向けました。
12日の段階で、山崎の集落そのものは高山右近が抑えていたので、結構不利な状態でした。
高山右近とは、山崎の戦いで秀吉軍の先鋒として活躍した武将であり、キリシタン大名としても有名。
6月2日、信長が殺され天下人の座が開くと、豪族たちは、謀反人の光秀側につくか、信長の重臣の秀吉側につくかの選択を迫られました。
豪族に、秀吉一世一代の嘘手紙が届きました。
信長が生きているのなら、光秀の味方をすれば、自分も謀反人の仲間とされてしまうと考えました。
その結果、秀吉は2万人以上の兵を集めました。
光秀も1万3000の兵はいましたが、寄せ集めの集団だったのでした。

磯田道史が軍師だったら、12日の競り合いで、山崎方向の天王山の麓に押し出して
包囲すれば良かったけど、急ごしらえの兵にはそれができなかったようです。
光秀は親しいと思っていた高山右近の協力を得られず、消極的な戦いで劣勢に追い込まれました。

さらに、本能寺の変で襲撃をした光秀側近の家老・斉藤利三がやめると言い出して、光秀が茫然自失。
次男がいなくなってしまったから「暇乞いをいたします。御免」
なぜ利三は光秀に別れを告げたのでしょうか。
いつも先頭にいた利三の不満が爆発したのでしょう。
光秀にとって、天下でなく運命の分かれ道となってしまった天王山。
現場の痕跡から、知略だったものの肝心なところで人の心をつかめず、負け組となってしまった光秀の真実が読み解けました。



 

2.幻の坂本城:最新の発掘調査から見えた光秀の新真実

滋賀県の大津市、琵琶湖の風光明媚なところにお城がありました。
秀吉によってこのお城は焼かれ攻め落とされて、痕跡が消えたとされていたのですが、近年少しずつ地中や湖底から痕跡が発見されました。

山崎の戦いからさかのぼること、11年。
信長の命令で琵琶湖のほとりに作られた坂本城でした。
城郭研究の第一人者・千田嘉博先生。

まさに水の都。
当時は最先端でした。
1571年、光秀が比叡山焼き討ち直後に築城。
江戸時代になると、海の近くの今治城などが出て来ます。
まだこの時代は山城のほうが戦いが有利だと言われていました。
安土城(築城1576年)ができる前でした。
そこにほ、比叡山を監視するとともに、琵琶湖の水運を押さえる目的がありました。
水城が戦いに有利な点は、火縄銃で山城は簡単に落ちるようになっていましたが、
火縄銃は湿気に弱いため、湿地帯は戦いにくいのです。
大津城は1600年、籠城戦で8日間持ち堪えました。
2024年、三の丸の石垣と堀が見つかりました。
石垣の下の部分が横長になっています。
穴太(あのう)積みとは、坂本に隣接する穴太村の石垣職人が用いた技法。
安土城よりも早く、光秀が坂本城に天主を作っていたそうです。
天主に使う材木は、比叡山から奪い取ったのです。
神仏を恐れない傲慢な一面が見えて来た光秀。
石垣で作る近世城郭の先駆けとなった坂本城には、天主にも光秀の思惑がありました。
吉田兼見の記録が残っていて、天主が2つあったようです。 
都に近い立派なお城ができたおかげで、光秀が天下への色気が出来てしまったのではないか。


 

3.琵琶湖に眠る「光秀貯金」とは

坂本城に最初に攻め入った高山右近がヨーロッパに報告しています。
明智の一門が、多額の黄金を窓より海中に投げ込み、自害したとされます。
安土城の財宝を坂本城に一度置いておいたようです。
再起を計ろうと、軍資金のある坂本城を目指したと言われます。

大津資料館。
近年の発掘調査で見つかった手がかり、坂本城の瓦として赤い瓦。
2022年の分析結果から、最初から赤い瓦の可能性が高かったようです。
龍頭瓦です。
1979年に坂本城本丸跡から出土しました。
皇帝のシンボルだから、日本ではあまり使われなかったようです。
光秀は、龍を掲げて権威をアピールしたようです。
信長の怒りが頂点に達した時、本能寺の変の直前、信長は反論した光秀を足蹴にしたそうで、ルイス・フロイスらに聞かれています。
光秀と信長の関係が悪化した原因となった竜頭瓦ですが、本丸にあった井戸の中から、見つかったそうです。
この龍には、天下人を夢見た光秀の並々ならぬ思いが込められていたのです。
また、三の丸から櫂(オール)と見られる木材が出土しました。
坂本城で舟が使われていたようです。
島津氏にも船を自慢したとされています。

水中考古学・南健太郎先生によると、
1994年、琵琶湖の渇水の時に重要な遺構が姿を現し、本丸の石垣が出現しました。
胴木という、軟弱な地盤を安定させるために石垣の基礎に木材を置くものです。
南先生が水位が下がった際に石垣を3次元計測しました。
舟入跡のようなものが推測されます。
実態解明につながる遺構。
湖中の南北に新たな石垣群が見つかったのです。
南側が水深が浅いので、巨大な船の波止場として突堤があったようです。
栗石は石垣を後ろから支えて排水の役割を果たす、小さい石です。
関ヶ原の合戦の後に他の大名も城を作るとこになって、坂本城の石垣を取って行ったのではないか。

千田先生によると、天主の外側に帯曲輪状になることで、守備力をより強化したのではないか
曲輪とは地面を削って平らにならし堀や土塁で囲んだ部分です。
琵琶湖側からの攻撃にも耐えられます。

現場でのさまざまなアプローチ方法による調査から光秀の野望と幻の坂本城の実態を読み解くことができました。
これだけ当時最新の技術の坂本城があったから、光秀に天下人という文字が頭によぎったのではないでしょうか。

 

 

決戦・アフター本能寺「秀吉 vs. 光秀 天下人への道」の記事はこちら(2025年11月30日)