決戦・アフター本能寺 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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▼写真AC:HiCさん提供のフリー素材

1582年(天正10年)6月2日 本能寺の変

史上最大のクーデターとも言える大事件

天下人・織田信長を討ったのは明智光秀。

今から4年前、見つかった新たな史料によると、光秀は本能寺には向かわなかったというのです。

 

最新の研究から、光秀の天下取りの秘策が浮かび上がります。

ライバルとの戦いに勝つためにカギを握ったのは天下布武の城でした。

もう1人の主人公が羽柴秀吉です。

戦国きっての大移動・中国大返し

秀吉は京への道を駆け抜けながら情報戦を仕掛けていたのです。

そして光秀と秀吉は京都の南、山﨑で天下分け目の戦いに臨みました。

知略と策略がうごめく最終決戦。

 

第1章 本能寺の変への道:信長と光秀の軌跡

本能寺の変に至る状況
19歳で家督を継いだ信長は尾張統一を果たした後みるみる勢力を拡大していきました
そして全国統一が見えて来たやさき、家臣だった明智光秀のクーデター。
信長は炎の中に消えて行きました。
「あの時のお館様の無念を思うと・・・。光秀、聞いておるか。今でも許しておらんぞ」

 

 

第2章 新史料『乙夜之書物』の衝撃

近年新たな史料が発見され、新たな事実が見えて来ました。

光秀の行動の通説を覆す驚きの発見
2021年、金沢市立玉川図書館で重大な発見がありました。
加賀藩の兵学者が記した『乙夜之書物』
戦国時代に起きた500以上の出来事が当事者への聞き取りを基にまとめられています。
この中に、本能寺の変について詳しい記述があることがわかったのです。
発見者の京都女子大学文学部講師の萩原大輔さんはあることに注目しました。
それは『乙夜之書物』が光秀側の武将の証言を基に書かれていたことです。
情報源は斎藤利宗という武将。
彼の父こそが、本能寺の変の真相を知る人物でした。
斎藤利三、明智光秀の側近中の側近です。
今までの本能寺の変の研究は、勝ち組側の視点にたった史料が多かったのです。
今回の光秀の重臣の子どもの証言に基づくということで、負け組側の史料なのです。
したがってすごく重要な史料であると考えられています。

 

第3章 光秀の謀反決断と鳥羽謎行動

時は本能寺の変の前日。
京都の西20キロに位置する亀山城。
光秀が信長への謀反を決意する場面から記述が始まります。
「殿、お覚悟召されましたか。どうかご決断を」
「利三、わしはもはや正気ではないのかも知れぬ。信長様を討つ」決起をきめた光秀は1日のうちに亀山城を出発、深夜に桂川に到着しました。
通説ではその翌日1万3000の軍勢とともに本能寺へ向かったとされています。
ところが「わしは本能寺へ行かぬ。京の南、鳥羽にて命を下す」なんと光秀は本能寺ではなく、鳥羽という場所に向かったのです。
本能寺には、信頼する斎藤利三らの別動隊 2000騎を派遣したとあります。
なぜ信長と異なる場所へ向かったのでしょう。
その謎を解き明かすカギは鳥羽の立地にあると萩原さんは考えています。

東寺は平安京以来、長い伝統のある京都の南の端にあたる部分で、道路を挟んで南側が鳥羽と呼ばれた京都の南側の広域的なエリア。
本能寺があった場所から南へ3キロほどに位置する東寺。
このあたりは鳥羽口と呼ばれ、京と鳥羽の境目でした。
京と大坂をつなぐ街道や川が走る鳥羽。
本能寺から大坂に向かう場合、必ず通ることになります。
こうした立地を踏まえ、萩原さんはある仮説を立てました。
光秀は、信長の大坂逃亡に備えていたのではないか。
この時大坂には頼るべき人物がいました。
信長の三男の織田信孝、そして重臣の丹羽長秀です。

秀吉は、四国の大名・長曾我部元親を討つために15000の軍勢を従えていました。
本能寺の変の翌日に、四国に出兵する予定だったため、すぐにでも光秀と戦うことができます。
光秀としては、信長と信孝の親子の合流だけは是が非でも避けなければなりません。
そこで万が一、本能寺で討ち逃した場合に備えて鳥羽で待ち構えたと考えられます。

 

第4章 本能寺包囲の実態と信長脱出の可能性

信長脱出の可能性はどのくらいあったのでしょうか。
かつて本能寺があった場所で検証してみました。

本能寺の跡は住宅地になっています。
区画はほとんど当時のまま。
4本の細い通りに囲まれた約120メートル四方がかつての敷地です。
発掘調査などで北と西には空き地が広がっていたことがわかりました。
ここに明智勢は大軍を配置することができます。
一方、東と南には下京と呼ばれる市街地が広がっていました。
この下京が明智軍の包囲の抜け穴になっていた可能性があるのです。
戦国時代の下京には総構えという障害物があって、光秀軍は中に入れなかったのです。
この限られた道幅の中で軍勢を展開する必要がありました。
当時の下京の様子が屏風絵で確認できます。
本能寺の向かいの下京に巨大な壁が貼りめぐらされ、兵を置く場所は細い道に限られていました。
本能寺の東と南に配置できた明智勢は一説によればわずか200人だったとされています。
さらに本能寺の周りには、信長の逃走を手助けする者がいました。
本能寺に隣接する下京には、信長の家臣たちが分散して寄宿していました。
信長はうまいことに寺の外側の勢力を糾合できれば、脱出の可能性が現実味を帯びることになります。
下京にいた信長直属の兵。
そのうち何人かは包囲を破り、本能寺に入れたことがわかっています。
ある程度の兵が集まれば、明智勢の薄い守りを突破して信長を逃すことが出来たということです。
だからこそ光秀は、本能寺は信頼する斎藤利三に任せて、自身は万が一の脱出に備え鳥羽に陣を張ったのです。
光秀にとって信長を殺すことは人生の一大事なので、絶対に失敗できません。
何重にも作戦を張り巡らせて考えたわけで、その一つが自分は後方に控えて、信長の脱出を遮ることを考えていたはずです。
萩原さん「光秀側と秀吉側の双方の史料に“光秀は本能寺に行かなかった” ということが出てきましたので、より信ぴょう性が高くなったのかなという感じです。
高橋「そもそも武士が逃げるってねえ・・・」
萩原さん「信長は越前朝倉攻めで浅井長政に裏切られましたが、その時の史料を見ると“是非に及ばず” と言って逃げています。
信長だからこそ潔く死を選ぶのか、信長だからこそ生への執着をすてないというのは、難しいところがあるかもしれないです。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスが、光秀は戦略と策略の達人であるとベタ褒めしています。
光秀だからこそ、グーデターがうまく行ったのだと。
無事にグーデターを成功させた光秀ですが、ここから先は気が抜けない状況にありました。

 

 

第5章 織田家有力武将たちの位置と脅威

織田の重臣の武将たちが軍勢を率い、各地に派遣されていたからなのです。
秀吉は中国攻めをして、毛利輝元と戦っていました。
北陸方面を任されていたのは柴田勝家。
上杉景勝と交戦中でした。
6月3日は魚津城を落とし、上杉氏を滅亡寸前に追い込みました。
滝川一益、この人は戦後最強と言われた武田氏にとどめを刺した武将。
関東の統治を任された人。
大坂にいた織田信孝と丹羽長秀の軍勢ですが、淡路島が光秀側の長宗我部元親に奪われ、軍勢は半数が四散したとされています。

3人のうち、羽柴秀吉は、本能寺の変が起きた後、毛利との最前線の備中高松城を攻めていました。
天正10年は西日本は豪雨だったので、あたりが海のようになっていました。
難攻不落の城を落とすため、秀吉が行ったのが、あの有名な水攻めでした。
まず城の周囲に堤防を築かせ川の水を引き入れました。
梅雨の最中、水位はみるみる上昇し、城は瞬く間に水浸しとなり、敵を降伏寸前にまで追い込んでいました。
秀吉の元に信長の訃報が届いたのは、本能寺の変の翌日。
毛利と和睦した秀吉は、2万の軍勢とともに急ぎ京へ向かいました。
世にいう、中国大返しです。
本能寺の変からわずか3日後のことでした。

 

 

第6章 秀吉の中国大返しと勝家の北国大返し

この時もう1人驚異的な速さで大返しをしようとしていたのが、柴田勝家です。
秀吉をはるかに上回る4万の軍勢を従えていました。
勝家はこの時、北陸の越中と越後の境にいたとされます。
近年、勝家の動きにせまる史料『溝口半左衛門家文書』が見つかりました。
勝家が自らの状況を味方に伝えるための密書です。
勝家が本能寺の変を知ったのは、6月6日ころ。
その3日後には北の庄城まで戻っていたことがわかりました。
移動距離はなんと180キロ。
1日に50キロ近く移動したことがわかります。
秀吉よりも早い勝家の北国大返し。
大返しのルート上には、神通川や九頭竜川など、国内屈指の急流が待ち構えていました。
勝家はどのように難所を突破して、高速移動を行ったのか。
福井市立郷土歴史博物館にある3メートルに迫る巨大な石の柱。
勝家が整備した橋の橋脚に使われたものです。
“本木半石” と記されています。
陸は橋脚を含めて全て石で、川に架かるところは木で作り、戦が起きると木造の部分を壊し、敵の侵入から防いでいました。
流れが早く橋脚が建てられない九頭竜川には、船を並べて鎖で結んだ舟橋です。
この上に橋桁を架ければ、暴れ川も渡ることができます。
高度な土木技術力を駆使し、勝家は重要な軍事ルート上にいくつも橋を架けていたのです。
北国大返しの成功に関わっていました。
1日遅れて本能寺の変を知った勝家でしたが、秀吉を追い越し、光秀のもとにたどり着くのも時間の問題でした。

6月9日、秀吉は姫路まで戻って来ました。
勝家は居城の北の庄城まで戻って来ました。
滝川一益は前橋にいて、ようやく本能寺の変を知ったようです。

 

 

第7章 光秀の織田家分断作戦

実は光秀は勝家の動きを予測して、事前に対策を練っていました。
6月4日、光秀は自らの居城、坂本城にいました。
勝家が取るであろう作戦
光秀は警戒したのは、北陸の勝家と、大坂の織田信孝、丹羽長秀の連携です。
大坂の軍勢は半減したとは言え、北と南から挟み討ちされたらひとたまりもありません。
光秀が考えたのは、若狭と近江をおさえ、両者を分断することでした。
カギになるのは、天下布武の城でした。
信長の本拠地、安土城。
この城を落とせば、光秀が織田家に取って代わったたことを周囲にアピールできます。
思惑通り、若狭の武田氏が味方に加わりました。
さらに光秀は丹羽長秀の本拠地だった佐和田城、秀吉の長浜城をも攻略し、近江一帯を手中に収めました。
光秀の織田家分断作戦。
効果はてきめんでした。
近年見つかった書状に勝家の嘆きが記されています。
勝家は大坂城の丹羽長秀に連絡を取りたいが、連絡を取る手段がない。
明智光秀が抑えていて、進めなかった。
動くに動けない状況に陥っていました。
この時代の情報は道であり、拠点を押さえることが大事でした。
光秀は安土城を抑えたことで、さらなる力を手にしました。
6月7日安土城に、朝廷から勅使が到着しました。
天皇から、都の守護を命ぜられました。
信長に代わる新たな天下人への一歩を踏み出した瞬間でした。
朝廷が光秀のバックについたのは、かなりの宣伝効果があったようです。

 

第8章 秀吉の心理戦:偽書状と淡路奪還

上杉景勝が、本能寺の変を知り体勢を整えて領土奪還に動き出しました。
取られた越中国(今の富山県)を奪い返そうとしました。
越中の武将も上杉に付くように風向きが変わったようです。
織田信孝と丹羽長秀には、長宗我部元親が淡路島を越えてやってくる可能性が出て来ました。
関東にいた滝川一益に6月11日、北条氏直が信長が亡くなったことを確認する文を出していたそうです。
1週間後に北条は反旗を翻して滝川の背後を突いて大敗に追い込みました。
信長の死を受けて、チャンスだと捉えたようです。

秀吉、中国大返しの真相
光秀が朝廷を迎えた6月7日、秀吉は中国大返しの真っ最中で、姫路城にたどり着きました。
走り続けたイメージがある中国大返し。
秀吉は姫路城に2日滞在しました。
突然のスピードダウンの理由は姫路から京都へ向かうルート上にある摂津には、明智側の武将が控えていました。
ここを突破しない限り、光秀を討つことは出来ませんでした。
そこで秀吉は一計を案じました。
梅林寺文書、秀吉の直筆の書状を配布しました。
「上様(信長)は、何事もなく無事に切り抜けられた」
信長が本能寺から脱出したと、嘘が書かれていました。
信長が生きているとなれば、摂津武将たちは光秀に味方することは出来ません。
本能寺で信長の遺体を見つけることができなかった光秀の弱みをついた作戦でした。
秀吉はさらなる一手を打ちました。
摂津の武将を寝返らせる手立て『広田文書』が残っています。
秀吉が瀬戸内海の漁師に充てて書いたものです。
光秀がおさえていた淡路島奪還に関することが書いてあります。
秀吉は姫路を出発した翌日の10日、軍勢の一部を淡路島に派遣し、明智の手から奪い返しました。
これによって長宗我部元親が海を渡り、光秀のもとへはせ参じるおそれは消滅。
摂津の武将たちに動揺が走りました。
光秀もしっかりと手を打っていましたが、それを上回る秀吉の情報力と判断力、場合によっては味方をだましつつうまく自分の方につけていく。
かなり的確に沈着に動いていたことが、広田文書からうかがえます。
中国大返しは、早さばかりでなく、緻密な作戦で相手を追い込んでいきました。

山崎合戦まであと3日と迫って来ました。
秀吉は淡路島を抜けて、尼崎へ向けて進軍中で着々と京に接近しています。
一方の光秀は、9日に安土城を出て朝廷に参内しようとして、上洛します。
秀吉は毛利と交戦中で苦戦していて、そんなに早く帰って来ないのではないと予想していたのではないかと思われています。

 

第9章 決戦前夜:山崎へ向けた両軍の布陣

光秀の立て直し。

京を守り抜くことを決めた光秀。
問題は秀吉がどこから攻めてくるかです。
西国街道だと、最短で京にたどり着けます。
2つ目は東高野街道、大坂を通るルート。
ここにいるのが信長の三男の信孝です。
敵撃ちの大義名分を得るため、信孝と合流して攻めてくる可能性も十分考えられました。
光秀は、秀吉がどちらから来てもいいよう、山崎と洞が峠に兵を派遣しました。
いずれも山あいの地形で道が狭まり、少ない兵力でも守れます。
さらに秀吉が舟を淀川で来ることも想定し、川沿いの淀城も整備しました。
京へ入るルート全てを固めた光秀、戦いの準備は万全でした。
一方の秀吉。光秀が兵の配置を終えた翌12日、尼崎で軍議を開きました。
選んだのは、最短ルートの西国街道でした。
さらに秀吉はここでもう一仕事やってのけました。
親の敵討ちに遅れてはと、信孝は西国街道を進む秀吉に合流。
これにより秀吉は最短ルートと、光秀を討つ大義名分、どちらも手にすることに成功しました。

 

こから秀吉と光秀の最終決戦。
6月12日、秀吉は35000、光秀は16000の軍勢。
先に陣を構えた光秀がベストセレクトな場所に拠点を構えた形になります。
秀吉は西国街道の一点突破を狙って、そこに信孝と丹羽長秀が合流する形となりました。
秀吉にとって信長の子どもがいるというのは、大きなプラスになったようです。

 

第10章 天王山の攻防と二将の寝返り

戦いの鍵になる場所・天王山。
全体の戦況が見渡せる最適な場所。
抑えていたのは光秀だったのです。
天王山には、光秀の与力と呼ばれる中川清秀と高山右近という武将がいて、この2人に任せていました。
「信長が生きている」中川清秀に届いたのは、秀吉の偽の書状でした。
秀吉の術中にはまってしまった2人。
キリスト教を保護していた信長。
それを討ち果たした光秀は、キリスト教のイエズス会にとって警戒すべき相手だったのです。
山崎の戦いを目前に控え、中川と高山の寝返り。
その知らせはすぐさま光秀のもとに届きました。
裏切られた光秀、しかし秀吉を迎え討つ方針に変わりはありませんでした。
京都を捨てることはできませんでした。

光秀に再び想定外の事態、光秀の背後で火事が起こりました。
秀吉の足軽が火を放ったようです。
防衛ラインが突破されたと考えても仕方ありません。
短期決戦に切り替えた光秀は山崎に兵を集中させます。
その数1万3000から6000。
一方秀吉は中川清秀、高山右近を中心とする先方1万3000。
後ろに、秀吉の本隊 2万7000。

 

第11章 山崎の戦い:最後の激突

天正10年6月13日夕刻。
梅雨の雨が降り頻る中、ついに両軍は激突。
焦っていた光秀に対し、雨が降っていました。
迎え討つ側は、暗くなると不利。
そんな中、奮闘したのが、斎藤利三でした。
もともとは美濃三人衆の稲葉一鉄という武将の家臣でしたが、光秀が才能に惚れ込んで、家臣にしました。
山崎の戦いでも、最前線でそれなりの活躍をしました。
こうちゃく状態から、秀吉軍が動きました。
全体が見渡せる天王山に軍師の黒田官兵衛を送り込みました。
こうちゃく状態を打破するために、別動隊による奇襲を仕掛けました。
淀川沿いに織田家の古参・池田恒興を派遣、天王山の軍勢とともに明智の側面につくというものでした。
作戦を成功させるためには、両者の息を合わせなければなりません。
そこで状況把握に優れた軍師の黒田官兵衛を天王山に派遣したと考えられるのです。
タイミングを見計らって攻め込んだ秀吉勢。
池田勢の攻撃によって光秀たちは混乱に陥りました。
押し込まれ徐々に後退する明智勢に2万を超える秀吉の本軍が殺到しました。
山崎の戦いの勝敗は決しました。

 

第12章 光秀の最期と秀吉の台頭

光秀は坂本城へ逃げる途中、落武者狩りにあって命を落としました。
天下を目指した男の最期でした。

山崎の戦いを制した秀吉は、その後も幾多の決戦をくぐり抜け、天下統一への道を突き進むことになりました。

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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、山崎の戦いが描かれませんでした。

「敵は本能寺にあり」「であれば、是非もなし」これらの決まり文句は本当に言ったかどうかわかりませんが。

やはり、信頼していた者たちからの裏切りがあったら動揺しますよね。

うその手紙を送って仲間に引き寄せるなんて、秀吉のずるがしこさが表れていました。

 

何だコレ・ミステリー「明智光秀・本能寺の変のナゾに迫る」の記事はこちら(2020年5月20日)