林修の今でしょ・講座
東大教授・歴史学者本郷和人先生が再度林先生に挑戦
「歴史を知れば大都市東京がどうやって出来たかわかる」
“関が原の戦い”は合戦直後は“青野原の戦い”と呼ばれていたと4月に報道された。
日本の歴史はカチッとはまったものではなくて、後から変わるものも有る。
徳川家康の町づくり
江戸の町の礎をたった一代で築き上げてしまった。
家康が能力を使いきって挑んだ大事業
織田信長・豊臣秀吉に仕えた家康だからできた驚きの発想力の数々
其の一・江戸に人が住む場所をつくる
家康は1600年に天下を統一し1603年に江戸幕府を開いた。
家康が来た時の江戸は、手がつけられない湿地帯、海抜ゼロメートル地帯
水が出てぜんぜんコメが作れず、生産量なし
価値の無い町だったが、そこに江戸の町を作った
家康が入る前から江戸城はあった、小田原に本拠を持っている北条氏が治めていた
北条氏もこんな湿地帯で米作りをしようと思わなかった
今の東京につながる江戸の町はいかに出来たのか
家康はなぜ江戸に町をつくることになったのか
そもそも家康は江戸に来る前の1590年頃は愛知・静岡県のあたり、温暖な土地で作物もよく採れて当時からひらけていた。
天下統一したばかりの豊臣秀吉が、家康の力を恐れ左遷した。
当時政治の中心は大阪で、関東地方は田舎だった。
東京がびちゃびちゃだった原因は、とにかく川が多く、すぐにはん濫した
雨がちょっと降ると水が溢れて、コメが作れない
どんなに種をまいても畑が荒れてしまう
このピンチを脱するために家康はある町づくりを考えた
家康は川だらけの江戸を見て、どんな町づくりをイメージしたのか“水の町”
当時の物流の中心は水運、水運を最大限利用しようと考えた
江戸以前、水運を活用した大坂では経済が大きく発展した
信長が安土(琵琶湖の水)に拠点、秀吉も大坂を拠点にした
当時のスーパー権力者は、水運にものすごく注意を払っていた。
「江戸を工事で変えてやろう」と思ったと考えられる
日本でも有数の大きな川である利根川を曲げた
当時の利根川は住田川となって江戸湾に注いでいた
今の利根川は茨城県を通って、鹿島湾に流れ込んでいる
利根川を90度近く曲げてしまった、地道の工事の賜物
家康が生きている間に終わらなかった大工事、約60年かかった。
同時に家康は、何本もあった川をまとめた
川の流れを変えることによって、江戸の町を湿地帯から救った
家康が亡くなった後、暴れん坊将軍で有名な八代将軍吉宗は、川がますますはん濫しないように強い土手を作った
土手に桜の木を植え見物客を呼び、踏み固めてもらって強くした
現在、隅田川など綺麗な桜並木ができているのは、川のはん濫対策の名残
其のニ・江戸の人口を増やす方法
川を整備したのと同時に、人が住める土地を増やすために海の埋め立て工事をおこなった
当時日比谷入江という海が江戸城のすぐ近くにあった
現在の日比谷・丸の内は400年前は海の底だった。
埋立地には、地方から来た大名や商人の邸宅が立てられ、かなり交流が図られた
日本のビジネスの中心地は、その時に江戸で決まったと言ってもよいのでは
埋め立てに使った土砂は、神田にあった山を切り崩して使った
浅草も海の近く、当時は海苔も採れた
品川は、鎌倉時代から機能していた港町
浅草が下町と言われる理由は?
山の手は西側、下町は東側を指す。
地盤が良くなかったところには庶民が住んでいて、地盤が硬かった地域には偉い人(武士階層)が住んでいた
江戸の町はどんどん発展していって人が増えていった
1650年ころ、江戸の町の人口は約50万人、50年で10倍になった。
家康が亡くなった後も、埋め立て地はどんどん増えていく
当時は土砂以外にもゴミが埋め立てに使われた。
今と違って、プラスチックもない
築地も埋め立て地だった。
其の三・流通に役立つ運河づくり
元々あった川を使いながら、運河を張り巡らせていく
陸路よりも、水路のほうが重い荷物が運びやすかった
流通を考えたときに運河は極めて重要な働きをした
運河づくりが成功した結果、江戸の町が水の都として成功した
東京に見られる江戸の運河の名残とは、首都高速道路
運河は東京中を張り巡らされていたため、その上に運河をつくりやすかった
京橋の運河と首都高速の形が一致する
地名として八丁堀、六間堀は運河の名残
1720年、江戸幕府が開かれて約100年後、江戸の人口が約100万人
当時、大英帝国のロンドンの人口が約90万人だったので上回った
とりわけ江戸の町は清潔だった
昔、ロンドンやパリでは、はいせつ物を2階から道端に廃棄していた
フープスカートは、膨らんだスカート、立ったまま用を足していた
運河を使って千葉へ運搬し肥料として使用し、新鮮な野菜を運河を使って江戸へ運んでいた
其の四・暮らしに欠かせない清潔な水道の確保
江戸の町に必要なのになかったもの、清潔な飲み水
江戸の町の地下を掘っても海水しか出なかった
郊外から水を引いていたが、距離が長いといたずらがあったり、汚れが入っていた
どういう形できれいな水を江戸に持ってきたか
地下に水道管を埋め、町中に清潔な水を通した
家康の時代には完成せず、三代将軍家光の時代にだいたい完成したと言われる
実際には木製の水道管(江戸東京博物館にある)を地下3~4mの地中に埋め江戸の町中に張り巡らした
庶民は水道代も徴収されていた
長屋には共同の井戸が設置されているが、住民は水道代を払い利用していた
井の頭恩賜公園の湧き水を神田上水(神田川)を使って約20km離れた江戸の中心部に送っていた
井戸の頭だから、“井の頭”だという説もある。
また、井戸の水はここのが一番だから“井の頭”となったという説もある
水道橋は、江戸時代に神田上水の川の上をまたぐ水路だったことが名前の由来
水道ができる前は、どうやって水を確保していたのか
水売りといって江戸郊外の綺麗な水を持ってきて売る商売があった
江戸に居続けた理由は
信長・秀吉は海外進出を常にやっていて、秀吉も朝鮮出兵で頓挫をした
家康はその失敗を見て、内需拡大に方針を転換したと考えられている
日本列島をもっと豊かにすることで経済を回そう
日本の西側というのは、先進地域で非常に豊かで、これ以上の発展では望めない
関東・東北は手を加えれば、発展の余地がある
家康は、関東・東北を豊かにすることで日本全体を豊かにする
そういう図式が彼の頭の中にあったのではないだろうか。
彼の凄さを思い知らされた。
前回の林修の今でしょ講座「東大×東大」記事はこちら(2016年2月11日)
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