森野くんが落合信彦さん「狼たちへの伝言」の前書きを引用してタイトルにも使っていました。
あの博覧強記な森野さんから見て落合信彦さんが「落合陽一さんのお父さん」という認識なのは驚きました。
吉本隆明を「よしもとばなな」さんのお父さんというくらいの衝撃です!
ドミニク・カルフーニをマチュー・ガニオのお母さんというくらいの衝撃です(笑)。
僕は逆に落合陽一さんが落合信彦さんの御子息と聞いたときの衝撃が思い出されます。
時間は流れますね!
不勉強ながら僕は落合信彦さんは世代的なこともあってほとんど読んでおらず、どちらかというとご子息の落合陽一さんのお父さんという認識でした。
落合信彦さんはひとつの時代を作った言っても過言ではなく、アサヒスーパードライのCMと共に強烈な印象に残っています。子供時分に「狼になろう」と思った人は多いはず( ー`дー´)キリッ
森野くんが前文から紹介していたので、僕も超久々に読み返していたら、JFKに触れているシーンがあり、80年代の記憶と共にいろいろと蘇ってきました。
まず、ランボーPart2での主人公に扮するスタローンのこんな上官への質問を紹介します。
Do we get to win this time?
(今度は勝っても良いのか?)
*上官は「今回は君次第だ」と回答します。前回は国家次第だったのです。
それでは、なぜ、勝ってはいけなかったのか。ここに、ひとつのエピソードがある。
ベトナム戦争は、1961年に、ジョン・F・ケネディが始めた、とされている。しかし、これは『二〇三九年の真実』にも書いたが、若干事実と異なる。CIAはすでに1940年代の終わりから、ベトナムに介入していたのだ。そして、ケネディは、逆に手を引こうと考えていたフシがあるのだ。
(略)
実際に、ケネディは1963年11月1日、ある重要な発表をしている。その年の末、つまり63年の12月までにベトナムの駐留米軍の、まず8000人を引き上げさせる、と。
しかし、それは実現されなかった。なぜなら、彼はそのすぐ後にダラスで殺されたからだ。
*ケネディ大統領の弟さんであるロバート・ケネディ司法長官の話も非常に強烈です。
この一冊目(狼たちへの伝言シリーズの一冊目)でも触れられている元グリーンベレーの作家と言われているのは(批判されているのは)柘植さんかと思います。この柘植さんにも僕はハマりました。M&Mと言って思い出すのは、柘植さんとエミネムです。
*ベトナムで情報を集めるときに、子どもたちに情報に対して報酬としてM&Mを渡していました。
(これが柘植久慶さんの実体験であったのか、それとも聞き書きというか、そういうものであったのかは別として)
エミネムについて言えば、エミネム自身の(本名の)イニシャルがM&Mで、そこからエミネムが来ているという話です!
14歳の時、高校の友人マイク・ラビーとラップを始める。エミネムは自身のイニシャルで「M&M」というラッパー名をつけるが、「エミネム」に聞こえるという理由からエミネムが定着。
もちろん時代は流れ、エントロピーは増大しているのですが(順序はともかくとして)、今でも古びない圧倒的など迫力ですので、狼たちは読んだ方が良いと思います。
いろいろ書きたいことがあり、そして過去の郷愁が強襲してくるのですが、ともかく気になった言葉を書き連ねます。
世界は、軍事力やイデオロギーでは動かなくなっている。それほど単純ではなくなっている。
本物の情報というのは、こういう、きわめて人間的な方法と手段によって得られるものなのだ。これはヒューマン・インテリジェンスなのだ。
ヒューマン・インテリジェンスに頼らないで、機械にばかり頼っていると、せっかくの情報機関も十分な働きができず、ただの官僚機構になってしまう。情報収集活動というのは地道で人間的な活動なのだ。
そのうえで、軍事的な力がどうしても必要だ、というならば、一兆円ぐらいずつ払って、アメリカ、ソ連、中国の空亡を日本近海に浮かべて、守らせればいい。現在の日本に必要なのは、常識にとらわれない、自由な発想なのだ。
そして、最後に、これを読んでくれているキミとオレの関係もまた、ひとつの出会いなのだ。(88年9月)
情報はインフォメーションではない、インテリジェンスだ、といのはDr.Tにも通じる議論です。また、「本物の情報というのは、こういう、きわめて人間的な方法と手段によって得られるものなのだ。これはヒューマン・インテリジェンスなのだ」というのは、「まといのば」でも重視しています。
機械にばかり頼っているとのくだりは寺田寅彦を思い出します(落合家のトラ彦という猫ちゃんの名前は寺田寅彦から来ているそうで)。
超大国の空母を浮かべて守らせておくというのは、まさに沈黙の艦隊的(Dr.Tも同じアイディアをシェアされています)。
ラストの「これを読んでくれているキミとオレの関係もまた、ひとつの出会い」という稿はまたしっかり紹介したい話です。落合信彦さんがますます好きになること間違いなしです!!
【動画紹介】
「ランボー/怒りの脱出」
いや、少し前提を共有します!
「今度は勝ってもいいのか?」
これは、日本語のスーパーでは、うまく訳されていなかったようだ。だが、数ある映画のなかで、もっともベトナム戦争の本質を表現しているのは、このことばなのだ。
つまり、あの戦争は最初から「勝ってはいけない戦争」だったのだ。「そんなバカな」と思うかもしれない。冗談のようだが、それが事実なのだ。最終的には、55万人ものアメリカの若者が投入され、その1割が戦死した悲惨な戦い。それでいて、目的は「勝つこと」ではなくて「戦いを続けること」だったという事実。その絶対的矛盾の認識なしに、ベトナムがどうだった、こうだったと語るのは、あまりに短絡的すぎる。
「目的は「勝つこと」ではなくて「戦いを続けること」だったという事実」はいまも続く軍産複合体の現実です。
【ランボーとベトナム戦争について】
パラダイムはシフトします。パラダイム・シフトすると、これまで良いとされてきたことが全部悪になるのです。「鬼畜米英」という標語(スローガン)が「Give me a chocholate」という現実になるのと同じです(←この事例も漂白すべきかも)。
自分は国のため、同胞のために、命をかけて正義のために戦ったのに、帰還したら、そこは別のパラレルワールドだったのです。メタバースならぬマルチバースで全く別な宇宙に来てしまった感じです。
何の話かと言えば(僕にとっては祖父の話ですが)、映画『ランボー』の話です。
ランボーというのは、あの詩人のランボーではなく、ベトナム帰還兵のランボーです。
アメリカの英雄として、世界の英雄として、戦地に赴き、命がけで戦ったのに、帰還した空港で見も知らぬ人から「赤ん坊殺し」とののしられるのです。
国の英雄のはずが、犯罪者扱いです。
(引用開始)
ディヴィッド・マレルの処女出版小説『一人だけの軍隊』の映画化作品であり、社会から孤立したベトナム帰還兵ランボーと、たまたま街を訪れた流れ者というだけでランボーを排除しようとした保安官との戦いや、ランボー自身の独白を通して、「ベトナム戦争によって負ったアメリカの傷」が描かれている。
(引用終了)Wikipedia
ネタバレになるので、以下は本編を見た人が見てください!
この映画の肝であるラストシーンです。
警察に囲まれ、そしてベトナム戦争の時のグリーンベレーの上官に諭されているシーンです。
この叫びこそが、戦争肯定社会から、戦後の社会へパラダイムシフトに挟まれたものの悲鳴です。
戦争社会(2つの世界大戦) → ポスト世界大戦(リベラルでグローバルな世界)
このシフトの叫びが理解できると、
ポスト世界大戦 → ホワイト社会
において、我々がどう苦しむのかを予習できます。予習しましょう。そして苦しみましょう。


