しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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仏教用語「止観(しかん)」というのは、文字通り「止めて観る」ことです。

何を止めて、何を観るのかと言えば、僕らの言い方では「アルゴリズムを止めて、そこで働いていたアルゴリズムを観ることです」。

なぜ止めるのかと言えば、僕らは観るのに下手なので、止めない限りはよく観えないからです。

 

しかしそのときに動いていることを想像して観ないと、全く逆の結論に飛びついてしまいます。文字通り真逆の結論です。

 

たとえば、「インスリンの出が悪いので、インスリンを注射する」という糖尿病の標準治療のパラダイムは一見すると正しそうですが、、、これは動いているものを観ることに不自由な知的バカっぽい処方です(もしくは短期的に問題を解決しようとして、長期的視点が無い人の)。

一見すると、「インスリンの量が足りないから補う」というのは正しそうに思えます。

しかし、きちんと止観していて、動いているアルゴリズムを想像して(脳内でそのアルゴリズムを動かして、それをきちんと観る)いれば、これが狂気の沙汰ということが分かります。

(ただ多くの人の健康を犠牲にして、製薬会社の利益を最大化しようとするならば、この処方は合理的です。悪魔的ですが)。

 

*上記の内容がここに書かれていますw

 

 

止観のイメージというのはなかなかわかりにくいものです。

ですので、絵画で考えてみましょう。

 

まず前提として、絵画は見るものではなく、読むものです(日本の教育からすっぽり落ちている視点です)。

 

絵画というのは読むものであり、ある瞬間を切り取っているようで、実際はアルゴリズムがあり、流れがあり、時間があります。

 

かつての絵画は時間の流れも合わせて書いていました(異時同図法)。

 

*旧約聖書創世記のエデンの園の物語です。左側が誘惑されるシーンです。

蛇がイブを誘惑し、イブがアダムを誘惑して、アダムとイブが知恵の実を食べようとするところです。

そして右側がうってかわって、神様にバレてしまい、楽園を追放されるシーンです。赤い天使がケルビムです。

 

24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。創世記3章24節

*命の木とはセフィロトのこと。生命の樹とも呼ばれます。知恵の樹とペアでエデンの園の中央に生えており、神様からその実を食べることを禁止されていました。知恵の実はもう食べてしまったので、ケルビムが守っているのは「命の木」です。

 

 

*若くして夭折したジェームズ・ディーンの「エデンの東(East of Eden)」はもちろんここから取られています。

 

 

で、我々は絵画を見ても、そこに時間の流れを見ます。

エデンの園で起きた誘惑と追放の物語を観るのです。

絵画は映画のように動くわけではないですが、ある瞬間を切り取っても、そこに過去現在未来が含まれていることを感じるのです(左右で時間が分かれていたりする場合もあります。異時同図法ですね)。

 

*ルーカス・クラナッハの描いたエデンの園には、何人ものアダムとイブがいます。これが異時同図法です。中央の赤い服を着ているのが神様です。

 

16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。創世記第2章16−17

 

物語をいくつも読んでいると分かるように、「禁止」はいつも「フラグ」です。フラグというのは、、、、フラグって説明が難しいので、Wikipediaの秀逸な解説を貼り付けます。

 

映画・小説・ドラマ・漫画・アニメ・シミュレーションゲームなどのストーリーにおいて、後に特定の展開・状況を引き出す事柄を指す用語である。伏線と同義であるものの、フラグは比較的単純で定型化された「お決まりのパターン」の含意があるとされる。

 

伏線という言い方は良いですね。

 

まあ、ともかくとして、禁止命令というのはいつもフラグです。

 

見てはいけないと言われたら、人は見てしまい、入ってはいけないと言われたら、入るのです(笑)

 

熱湯風呂に際して「押すなよ、押すなよ」というやつですね。

 

もしアダムとイブが禁断の果実(Forbidden Fruits)を食べなかったとしたら、人類の物語は始まらないので。ずっと幸せなエデンの園という牢獄に閉じ込められたままです。彼らは追放されて自由になったのです。そしてそれを神も祝福しました(さんざん呪いもしましたがw)

 

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた創世記第3章21節

 

創世記の物語、そして原罪(Original Sin)、そして蛇との出会い(悪魔との出会い)、知と死をめぐる問題などが、ギュッとつまった楽園追放(失楽園)の物語を一望できるのがこれらの絵画ということです。

だからこそ、絵画は見るものではなく「読む」ものです。視点を動かしながら、脳内で物語を再生し、その物語を読むものです。

 

 

だから、海外の美術館では子どもたちがキュレーターに長い時間かけて、一つの絵画を解説しています。知識があって、何が見えるかが決まります。

 

c.f.理論があってはじめて、何を観測できるかということが決まる(アインシュタイン)=事実は歴史家が呼びかけた時だけに語る(E・H・カー)2014年03月04日

 

 

 

 

(日本の不思議な教育方針である「見たまま、感じたままを描きなさい」とか「感じたままを書きなさい」という作文は、ひとつのイデオロギーであり、たとえば印象派などが一瞬だけ採用したものでしょう。多分w

しかし、印象派であっても、その前の歴史を背負っているのです。そこだけを切り取って、敷衍してはいけないと思います

読書感想文なども本当に「感想」なので苦痛なわけで、読書とは論理の謎解きであり、その楽しさを理解でき、そして文章を書くとは論理の積み木であり、その喜びを知れば、すべては変わると思います。)

 

いや、論理の積み木遊びというのは、単に引きこもりのオタク的喜びではなく、世界を書き換える呪術的なものであるのです。というか、あるべきです(というか、これに安倍晴明やニュートン、アインシュタインたち魔術師は気付いてしまったのです)。

 

c.f.人間と記号表現の関係において、少しでも変更をほどこせば、、歴史の全行程が変わってしまう(ラカン) 2015年04月20日

 

 

 

 

逆にもし論理の積み木遊びで、現実世界が変わったように感じないとしたら(単に不感症で、目が悪い場合もあります。明らかに変化したのに気付かないということです。この原因は、大概は頭が悪いか、ゴールがないためです。ゴールが無いために変化に対する重要性がないのです。ゴールが無い人にとって重要性があるのは「変わらないこと」です。変化はスコトーマに隠れます)

 

ちなみにここにおいては「私は概念じゃない」をもじれば「概念は(あなたが思うような)概念じゃない」のです。概念は生きており、変化し続けています。定義というSMプレイでどこかに貼り付けにされたときであっても、そこからスルッと抜け出て変わり続けます(というか、定義自体が不可能というのは一つ前の考え方で、本来は定義とは縁起のネットワークということだと最近は考えています)。

 

定義不能をおしゃれに言えば「言葉に意味はない(意味は状況にある)」という状況意味論です(ちなみにこれを某有名私立大学の語学科のレポートに書いたらFailだったそうで、他の某有名私立大学の心理学教授はヒルガードを知らないとか、、、Failを出されるのは自分の専門にすら不勉強な彼らのほうでしょう)。

 

 

話は戻って止観です。

止めて観るのです。

何を止めて観るかと言えば、そこで動いているアルゴリズムを、です。

 

 

そして、その止めて観るという訓練の良いメタファーが「絵画を読む」ということです。

絵画を読むというのは僕の造語ではありません。イコノロジーなどでは普通の考え方でしょう。イコノロジーとはIconから絵画を読み解いていく試みです(多分)。

 

 

*寺子屋「美学(美術編)」の参考図書でしたね!

 

 

止観というと、インチキヒーラーたちが、コールド・リーディングのマネごとをしている際の権威付けに使いがちですが(笑)、もっと厳密で、もっと使いやすいものです。

コールド・リーディングというのは、、リーディングというのはReadingです。何を読む(Reading)かと言えば、心や状況を読みます。

Readingのニュアンスとしては、チャネリングなどが思いつくでしょうが、そこから来ています。

で、このリーディングには、事前に情報を知っている場合と知らない場合があります。

前者がHot、後者がColdです。

 

事前に調べ上げて、あたかもその場で当てたかのように言うのが、Hot Readingです。インターネットが普及する前から、これは徹底的に行われてきました。調べ上げられているのも知らず、その場で当てられたと信じるクライアントが良いカモにされます。

一方で、調べられなかった場合、急にリーディングを頼まれたときに使うのがColdReadingです。

これは万人に当てはまることを言います。

 

たとえば、、、(まあ、いっぱい文例はあるので調べてください)

 

あなたは気が強いけど、本当は脆いところがある、、、みたいな。

 

二律背反を並べていけば、すべての人に当てはまる内容が言えます。

 

特に外見の印象と真逆のことを「本当は」と声をひそめて言えば、「当たっている!」って思ってくれるものです(大概は当たっていません、それはその人がなりたい自分なだけです。「ないものねだり」というのは分かりやすいアルゴリズムの一つです)。

 

*かつて、コールド・リーディングをよく紹介していたときの参考図書ですね。気楽に読めますが、この技術は参考程度に。もう広く公開されている情報なので、本気で使ったら足元を見透かされます。メンター養成スクール受講生は最低限これは読んでおいてください!

 

 

止観に戻ります!

止観とは、止めて観ることです。

 

で、タレブに指摘されるまでもなく(知的バカだけではなく)、我々は止まっているものは見えるのですが、動いているものを観るのは下手くそです。

 

アディトレスクールの裏テーマとなったロゴス(論理、言葉)とはこの止観をめぐるものです。ロジックを丁寧に追うこと、そして脳内再生することです。そうすると普通に言われている「正しさ」が狂気の沙汰で、普通に間違っていると考えられていることが本当は正しいことに気づきます。

 

 

集められた魂は目覚める

霊(アートマン)の知識の中に

それは無知の者には暗夜である。

無知の者は自らの感覚的な生命の中に目覚める

それを彼らは日光だと思う。

だが見者にとってそれは暗黒である。

(バガヴァッド・ギーター2章69節)

*ソクラテスが語るイデア論も、その原典(プラトン「国家」)を仔細に読んでみると、このバガヴァッド・ギータと同じ構造が見て取れます。洞窟の中のことは、外の光に慣れた目には何も観えないのです。そうすると洞窟の暗闇で過ごしてきた人間はそれを嘲るのです。

どちらも見えることはなく、上の世界を見れば、下の世界は見えなくなり、下の世界に囚われれば、上の世界はスコトーマに隠れます。

 

 

 

止観とは止めて観ることです。

しかし、止めた状態の知識を丸暗記してしまうと、ダイナミックに動いた絵が観えなくなります。

すると、良かれと思ってま真反対の結論を演繹してしまうのです。

同じ知識を持っていても、それがStatic(静的)なのか、Dynamic(動的)なのかによって、結論は180度変わるのです。

 

その好例が糖尿病患者へのインスリン注射です(というわけで、冒頭に戻ります!繰り返しループしてくださいwループしているうちに上昇し始めます。抽象度の高い世界へと)。