気功にせよ、ビジネスにせよ、勉強にせよ、キツくなってきたところから、ようやくスタートです。
オーバートレーニングは避けるべきですが、オーバートレーニングになることなどほとんどありえないと考えて、負荷をかけていくことです。
ブログを書いていても、書けなくなってきたときがようやくスタートです。サマセット・モームは書くことが無いときは、いつものルーティンでコーヒーをいれて、タイプライターの前に座って、自分の名前をタイプし続けたと聞いたことがあります。
開業セミナーの課題の一つに、「私は...」から始まる文章を50個書いてみるというものがありました。
私は大学生です。
私はバナナが好きです。
私は歌を唄います。
私はオペラが好きです。。。。
などと書き連ねていきます。
自分のパートナーや家族、親戚、趣味、職業、夢、将来のこと、過去の出来事、なんでも書いても良いのです。
しかし、最初はいくらでも書けるような気がするのですが、書いているうちにスラスラ書いていてた手が止まり、苦しい思考の時間に入っていきます。50がスラスラ書けたら、100を書けばよく、100スラスラ書けたら、200と増やしていけば良いのです。
定義上は無限に書けるはずですが、そうはいきません。
キツくなってきます。
そのキツくなってきたところがスタートです。
この作業自体は「キツイ」には程遠いのですが、ビジネスのアイデア出しにせよ、企画立案もともかく数を出すのが重要であり、どんどんキツくなります。その体験を先取りできます。
そして、キツくなってきたところが、スタートラインだと知っているだけで、人生は明るくなります(多分)。
成果や能力というのは、地頭の良さの差もあるでしょうが、それ以上にコミュニケーション能力であったり、自制能力が重要であることはよく知られています。そう言えば、マシュマロ・テストなるものもありました。
自分のいまの限界を知ること、そしてその限界を押し広げる根気とコツを早い時分に学ぶことが成功の秘訣だと思います。
学歴が重要ではないというような風潮もありますが、僕自身が学歴を大事だと思うのは、それが一つのハード・トレーニングに耐えてきた目安でもあるからです。
自分を自制する術を持てば、進化は容易と言えます。良く言えば無心であり、シンプルに言えば、ゴールの世界を生きるということかと思います。
ゴールの世界を生きるということは、この世は地獄です。なぜなら、物理的現実世界は灼熱の太陽の下の砂漠のようなものです。自分はオアシスにある冷房の効いた喫茶店で冷たい水を飲みたいわけであり、そしてその冷たい水だけをリアルと感じて、砂漠を重い足を引きずりながら歩くことになるからです。
しかしその一歩、一歩は確実に喉を潤す冷たい水につながっているから、もし途中で息絶えたとしても、幸福なのです。
以前も引用したハムレットの一節です。

*ペネロペ・クルスが自分の実像と虚像のギャップに苦しみながらも、Assume a virtue, if you have it not.と言い聞かせているとインタビューで答えていたのが印象的でした。ブログ記事「「持っていないならば、せめてあるふりを」世界一セクシーな女性のお気に入りの言葉」
Assume a virtue, if you have it not.
That monster, custom, who all sense doth eat,
Of habits devil, is angel yet in this,
That to the use of actions fair and good
He likewise gives a frock or livery,
That aptly is put on. Refrain to-night,
And that shall lend a kind of easiness
To the next abstinence: the next more easy;
For use almost can change the stamp of nature,
And either master the devil, or throw him out
With wondrous potency.
もし美徳を持たないというのであれば、持っているふりをしなさい。
かの怪物、習慣というものは、感覚を食べ尽くし、
悪魔のようにふるまうが、一方で天使でもある。
良い行いをするならば、すぐにそれにふさわしい着物を与えてくれる。
今夜は自制しなさい。
そうすれば次はより易しくなる。
習慣は生まれ持った性格を変えてくれる。
そして驚くような権威で、悪魔を支配するようになる、もしくは悪魔を放り出してしまうだろう。
(シェイクスピア「ハムレット」)
ハムレットの母に向かって言うこの居丈高なセリフはイエスの母に向かってほざく「私の母とは、だれのことか」(マタイ12:48)という言葉を思い出させます。
12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
12:47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。
12:49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
母と兄弟がようやく我が子イエスを見つけて、会いに来たときに、この仕打ちはひどいものです。
そして次に会うのが磔の我が子であるというのが本当に涙を誘います。

*ミケランジェロ「ピエタ」
しかし、そうは言っても、ハムレットにせよイエスにせよ真理をつく名言です。
ペネロペ・クルスのインタビュー記事からの引用です。
She doesn’t feel like the sexiest woman alive, she says—she feels like a mother who doesn’t get enough sleep; Bardem is filming in South Africa, and she is anxious to return to her children—but given the role, she will play it. “Assume a virtue, if you have it not,” Cruz says, quoting Hamlet. It is one of her favorite lines.
(私は自分を最もセクシーな女性だと思っていません。寝不足気味な母です。旦那は南アフリカに撮影に行っており、私は子供のもとに戻りたいと強く願っています。しかし、与えられた役があるなら、それを演じるだけです。お気に入りのハムレットのセリフをつぶやきながら
「持っていないならば、せめてあるふりを」)
ペネロペ・クルスの
but given the role, she will play it.(しかし、与えられた役があるなら、それを演じるだけです
という感覚は、キリスト教の異端でありグノーシスでもあったマニ教徒であり、若いころに肉欲の限りを尽くしたアウグスティヌスが苦しみの中でキリスト教に転向したときに目に飛び込んできたロマ書の一節を思わせます(先日のエメラルド・タブレットスクールでもロマ書はキリスト教において重要な結節点であることを確認しました!)。

*左上から真理(Veritas)の光が射しています。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。(ローマ人への手紙13:14)
「わたしは、自分の過去の汚れたふるまいと肉にまつわる私の魂の堕落を想起しようと思う。(略)わたしはかつて青年時代、下劣な情欲をみたそうともえあがり、さまざまなうす暗い情事にふけっていた。(アウグスティヌス「告白」第2巻第1章)というアウグスティヌスにとっては、後段の「肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」に心打たれたのかもしれませんが、我々は「主イエス・キリストを着なさい」に注目します。
これはまさにAssume a virtue(もっていないならば、せめてあるふりを)であり、but given the role, she will play it. (けれで、役割が与えられたら、それを演じるだけ)です。
この話は夏目漱石が「僕もない知恵を出しているのだから、君も無い腕を出してくれ」と言ったことも思い出します。
東京帝国大学の教授であった夏目漱石があるとき懐手をしている生徒を見咎めて、怒ったという話です。手を見えるように出すよう、何度も求めた漱石に対して、見かねた他の学生が彼は腕が無いんです、と回答します。
それに対して漱石は「僕もない知恵を出しているのだから、君も無い腕を出してくれ」と言って、その場を収めたと言われます。
これは本当にひどい話しだと若いころの僕は思ったのですが、いまはよく分かる気がします。
本当に「無い知恵を」絞りだす日々だったのではないか、と。
夏目漱石もまたキツくなってきたところから延々と知恵を絞り、そして日々生きていったのだと思います。
夏目漱石が芥川龍之介に送った手紙にこうあります。

(引用開始)
牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
是から湯に入ります。
八月二十四日 夏目金之助
(引用終了)
漱石先生の言葉が我々の耳に時代を超えて響くようです。
「あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。」
まさに「それ丈」なのでしょう。
この文章を引いたブログにマキャベリの引用がありました。
突然に地位なり何なりを受け継ぐことになってしまったものにとって、心すべき最大のことは、
何よりもまず最初に、しかも直ちに、土台を固めることである。
苦しくても何でもともかく「土台を固め」ましょう。それだけです!!
バレエでも気功でもビジネスでも人間関係でも何でも「土台」が全てです!
テクニックなどは時間の中で希薄化されます。
土台こそがすべてです。
キツくなってきたところからがスタートだと思って、土台を徹底的に創り上げていきましょう!!

*ようやくできる程度のものは土台にはなりません。ビジネスの基礎にもなりません。