変性意識や瞑想というのは分からないことと、そして間違った情報が多すぎると感じるので、これを機に整理してしまいましょう!
まずご質問です!
(引用開始)
ブログを読む、紹介されている本を読むことは私にもできるのですが、抽象度を上げる練習ってどのようにすればいいのですか?それに変性意識に入る練習ってどういうものですか?
変性意識に入る練習は瞑想ですか?瞑想で何も考えない努力をしてもどんどん考えが浮かんできますし、それを過ぎるとどうでもいいようなイメージが出てきて、最終的にはいつの間にか居眠り状態です…汗
もし個人でできる抽象度を上げる練習法と変性意識に入る練習法があったら教えていただきたいです。
(引用終了)
抽象度を上げる練習というのは、非常に難しいのですが、パッと思いつくのはたしかに瞑想です。
瞑想というのも広い概念ですし、ほとんどの人は「下手の考え休むに似たり」になっています。
瞑想をきちんとできるということは、きちんと変性意識に入れているということです。
ここで変性意識(ASC)について定義しますが、以前は通常意識の対概念として、変性意識は定義されていました。通常の普段の生活の意識に対して、トランスに入り、いまの物理的現実世界ではない臨場感に移行している状態をトランスなり、変性意識と呼んでいました。
しかし、現在は通常意識vs変性意識という考え方をしていません。
これは歴史的な言い方で、たとえば化学における無機vs有機みたいなものです。生命から生じるのが有機で、それ以外は無機と考えられていましたが、今はそう考えていません。無機と有機のゲーデル数になったのは、ご存知の通り尿素です。有機化合物として知られていた尿素が無機化合物から初めて合成されたので、それをもって無機vs有機という区分けはガラガラと崩れたわけです。でも近似解というか、ざっくりとした区分としては便利なので、今でも有機化学と無機化学という風に名前は残っています。ただ境界線はぼけています。
同様に境界線がぼけているのは、物理と情報です。これも以前ははっきりとした境界線があると思われていましたが、その境界が本当は無いよね、というのが現代物理学の結論です。ただざっくりとした区分としては便利なので使っています。
で、通常意識と変性意識も同様です。
我々は通常意識だと思っているときも、そうですが何らかの変性意識に入っています。別に小説を読んだり、映画を観たりという明らかな変性意識ではなくて、道を歩いているときなどでも同様です。
道というのは物理的現実というよりは、その道の先の到達点への経路として情報的に認識しています。物理以上に情報なのです。すなわち、あるがままの物理を見ているというよりは、通常意識のときもすでに変性意識ということです。逆向きに言えば、変性意識から完全に脱すれば、それは1つの悟りと言えます。
(まあ、インセプションと同じで現実から覚醒してもまたそこは「夢から醒めた夢」なのだとは思いますが。そのことを指し示す高僧たちの記述は多くあります。有名なのは重い荷物を背負い旅する高僧と弟子がいて、弟子が「悟りとは何ですか?」と高僧に聞いたのに対し、高僧は荷物をおろして見せ、弟子が「それでは悟りのあとの人生とは?」と聞いたのに対して、また荷物を背負って歩き始めたという小話があります。若いころ、僕はこれが全く意味不明でしたが、棺桶が見えてきた僕にはこれはかなりクリアに悟りを示しているような気がしています)
で、結論は、我々はいつも変性意識であるということです。
そこからの帰結は、変性意識に入るにはどうすれば良いのかという質問は不要ということです。
いまこの文章を読んでいる時点で、しっかり深い変性意識に入っているからです。
瞑想についても同様です。
瞑想を目を閉じて無念無想にするというのは、言葉の綾(あや)のようなものです。
無念無想にしたければ、寝ればいいし、昏睡するか意識を失えば良いです。
そんなものが瞑想でないことは明らかです。
ですから、無念無想は冗談みたいなものです。
そうではなく、流れる想念を眺めることです。
想念にとらわれなければ良いのです。
情動が起きても、それを外から眺め、記憶が起きても、それを眺めるのです。
ただ僕自身は現代人が座禅のような瞑想をすることにあまり意味を感じません。
暇な時代ならば、それでも良いでしょう。
しかし、我々は圧倒的に抽象度の高い世界に住んでいます。
ですので、朝起きてから寝るまで、すべての時間を瞑想の時とすることです。食事するときも、トイレも、通勤通学もすべてです。
もちろん、その際に脱力は役に立つでしょうが、最近は脱力というと無気力と勘違いしている人がいるので、きちんとした所作とか、ハタで身体を使うなどに翻訳したほうが良い気がします。
昔の人の言い方で言えば「背筋を伸ばす」ということです。「背筋を伸ばせ」と言われているのに、背中を反らせる人がいますが、「背筋を伸ばす」のです。
よく指導者が「ちゃんと聞け」と言いますが、多くの人はちゃんと聞いているつもりなんだと思います。そこらへんを綺麗にトレースしたのは武井壮さんの「笑っていいとも」でのタモリさんへの秘技伝授でしょう。
*これもすぐ消されてしまうと思いますので、早めに視聴を(2016年8月17日に再掲しました!)
脳と身体がつながっていないということです。
これはバレエなり、スポーツの人にはポジションと呼ばれてお馴染みのものです。お馴染みすぎて盲点ですが、なるほどと思わされます。競技のポジション以外はポジション取れない可能性がたしかにあります。
ちなみに身体だけではなく、周りのスペースにもこの感覚は拡がります。
たとえば、ダンサーは板付きにせよ、踊りでのフォーメーションでもそうですが、場見を見ること無くほぼ正確に場所へ移動することが出来ます。これは身体の外側にも、武井壮さんの言う感覚があるのです。
ちなみにダンサーの場合は、舞台の床に対しての座標と、コール・ド・バレエ全体が持つ座標の両方が走ります。舞台の床だけを優先すると、コール・ド・バレエ全体で少し変わった時に(むしろ変わらないときなどありません)、1人だけ正しい位置なのに間違って見えることになります。ですので、舞台の床に対しての自分の位置を考えて、移動しつつ、コール・ド・バレエ全体の座標を察知します。
話しは戻して、「背筋を伸ばす」と言われたら、本当に背筋を伸ばすことです。背中を反れとか、腰を反れとは誰も言っていないのです(^^)
たとえば、少なくとも意識のあるすべての時間を正確に「背筋を伸ばそう」と思うだけで、深い変性意識に入ることができます。
そうすれば、抽象度を上げる練習に入れます。
抽象度を上げる訓練はたくさんありますが、一番素早く確実なのは、我田引水ながら「まといのば」の記事を繰り返し読むことだと思います。
難しいと感じるときは、丁寧に繰り返し読めばいいですし、易しく感じるのであれば猛烈にスピードを上げて、その内容を素早くアウトプットすればいいです。一石二鳥にも一石三鳥にもなると思います。
どんなものであれ、文章を読むというのは変性意識ですし(文字で表現される世界へ臨場感が移動していますので)、その文章が意識的に抽象度をあげようとしているものであれば、それを読むことが瞑想になります(だからこそ、古典に学べとよく言われるのです。しかし古典はその抽象度にいない人にとっては読めないのです。それが古典をめぐるパラドックスです)。
というわけで、24時間背筋を伸ばしながら、時間を見つけてはブログを読み返し、他の時間はブログの内容の理解を深めながら、行動してみてください。それが24時間深い変性意識、深い良い瞑想状態に入ることとになります。
傲慢な物言いとは百も承知ですが、ある人々にとっては、ブログは禅における公案にもなり、瞑想のための経典(教科書)やマントラ(トリガー)にもなるということです。その人々に向けて、日々書いています。
