まあ一見すると以前、レイキのシンボルとマントラは秘密であるはずなのに公開されているということを指摘しましたが、それと似た話です。
5期のヒーラー養成スクールの中でも指摘しましたが、公案のアンチョコ集は存在します(アンチョコとは古い言い方ですね。虎の巻であり、問題と回答が併記されている禁断の書です)。
ちなみにオリジナルはかなり探しても出て来ません。古書店を相当に回らないと出てこないのではないかと思います(というときっちり見つけてくる方がいそうな気がしますが)
で、そのオリジナルは「現代相似禅評論」(太平洋出版、1971年刊)です。
オリジナルは幻の書なのですが、その英訳が存在します。The Sound of the One Hand: 281Zen Koans with Answers. Translated by Yoel Hoffman, Newyork 1975
http://www.amazon.com/The-Sound-One-Hand-Answers/dp/0465080782
です。
71年に日本語版が出て、すぐに75年に英訳が出るというのもスゴイです。
当時の禅ブームが伺えます。ちなみに禅ブームを起こしたのは鈴木大拙です。日本よりアメリカで有名かもしれません。
で、その英訳のThe sound of the One Hand(隻手の音声)を再び日本語に訳したのがひろさちや先生です。
ちなみにひろさちや先生の本はこのブログでは「空海入門」を幾度か紹介しました。
面白ろいのは、ひろさちや氏は大学院生のころ実名で鈴木大拙の「An Introduction to Zen Buddhism」を邦訳されています。この本は1934年にアメリカで発刊されています。
で、なぜ5期でこの話をしたかと言えば、無念無想や「無の境地」と「何も考えない」がしばしば混同されるからです。
たとえばアスリートたちの「ゾーン体験」や「フロー体験」は「無心」ですが、無思考ではありません。無心や無念無想、無の境地というのは、バカには入れないのです。頭を使わなくて入れるという誤解があるのですが、これは脱力やゆると同じで、限界まで身体と頭を酷使し続けた人間が入れる境地です。
頭を使いまくった先に、真っ白な世界があり、そこではより高速に頭が回転し、あたかも何も考えていないかのような体感を持つのです。
ちなみにアスリートというのは、考えていては反応速度が遅くなります。0.1秒で手元に来るボールを打ち返すのにゆっくり思考している時間はありません。意識すら働かせる余裕はないのです。ですから、無意識の情報処理にゆだねます。無意識と闇雲は似ているようで全く違います。ランダムにラケットやバットを降れば、当たるという悠長な話ではありません。あたかも無意識が合理的に計算しているかのような行動(実際にしているのですが)を取らせます。無意識に咄嗟にそのような行動を取らせるために、無意識の情報処理を徹底的に意識に上げて鍛錬します。
無意識のフレームを書き換えるために、意識に上げて書き換えるのと似ています。
意識でできるようになったら、今度は無意識に落とし込みます。意識的にならできます、では実戦で使えないからです。
5期でも何度か言及しましたが、「講義を聞いて理解しました」というのは、理解の半分です。
もしかしたら1割かもしれません。では、残りはどこにあるのかと言えば、それは実践の中にあります。
理解の残りはご自身がヒーリングをする中で、つい口に出てしまったときや、手が動いて直してしまったときに、達成されます。「まといのば」で学んだことが、無意識でクライアントさんに対して出たときに、そしてそれを認識したときに、はじめて「理解した」と言えます。
意識的にこれを言おうと思って言うときではなく、無意識に口をついて出てしまい、無意識に手が動いてヒーリングをしてしまったときです。そのとき、我々は自分の無意識にまできちんとフレームが落とし込めたことを理解します。
そのときは、もしかしたら無念無想や無心かもしれませんが、それは「何も考えていない」のではなく、「思考が横溢」しているのです。
両極は相通ずのです。何も考えていない、何も知らない無知と、森羅万象を博覧強記である賢者は似ているのです。ソクラテスが無知の知と言った時に、彼がいわゆる「無知」だとは誰も思っていません。ただ多くを知り、賢くなると、どうしても人は謙虚になるのです。井の中の蛙が大海に出たら、謙虚になります。
宇宙の広さを知り、知識世界の広大さをいやが上にも知るからです。知らないで済むのは幸いですが、愚かでしかありません。蛸壺か井戸の中で充足すれば良いと思います。
これは、ニュートンが(彼にしては謙虚に)自分は真理の大海を前に貝殻を拾っている子供のようだと言うのと似ています。偉大な業績を上げ、偉大な知性を持てば、自分の無知を深く知ることになります。知れば知るほど、世界の広さを思い知らされるのです。なぜなら知れば知るほど自分の宇宙が広がるからです。知識の習得はパラドキシカルです。知れば知るほど、無知の度合いが深くなるのです。度合いとは体感での無知の割合と言っても良いでしょう。
ですから、「無心」や「無念無想」「無の境地」は「無い」のではなく、横溢しており充満して飽和しているイメージです。言語で徹底的に考え、論理で徹底的に考えた先に、論理を超えた世界を見るときに「無の境地」に入ります。身体で言えばゾーン体験です。
何も考えずにバカのままで大リーグのバッターボックスに立って、無心にホームランを打てると考えるのは不合理でしょう。可能性はゼロに等しいのです(ゼロではありません、何事も例外と事故は存在します)。
禅の目指す世界も同じです。徹底的に思考を突き詰めよということです。
突き詰めた先にふっと浮くような、ふっと真っ白になる瞬間があります。それは自分でするのではなく、唐突に降ってくるようなものです。
それを思い起こしてくれるのが、今回紹介する公案回答集です。禅は公案という「問い」とセットの営みです。ただ座るのではありません。瞑想も同じです。問いを抱えずに座り目を閉じるのは休んでいるのと同じ、寝ているのと同じです。それが悪いわけではありませんが、禅なり瞑想の機能は果たせません。
【書籍案内】
レイキを紹介するつもりもありませんし、こちらの書籍をおすすめするわけでもないのですが、レファレンスとして。
レイキ~癒しのハンドブック(CD付) (単行本)/望月俊孝

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こちらは絶版です。中古でもなかなか無いのでは?
現代相似禅評論 (1971年)/破有法王

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その英訳をまた邦訳したものです。面白いかどうか不明ですが、このような本もあるというのは知っていて損は無いと思います。ひろさんの解説は面白いです。序文だけでも買う価値はあります。
ひろさちやのウルトラ禅問答 公案解答集/著者不明

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ひろ先生が若いころに実名で翻訳されたという鈴木大拙の著作です。
「An Introduction to Zen Buddhism」の邦訳です。
禅仏教入門 (禅ライブラリー)/鈴木 大拙

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