唯識論ではないですが、一切が空である、というアイデアは重要です。
では「空」なる世界で私たちは何をモチベーションに生きれば良いのでしょう?
神やカルマ、輪廻や魂があった宇宙のほうが、目的も意味もはっきりしていました。我々は何をよりどころにすべきでしょう。
いわゆる物理学の超ひも理論を考えると、「空」というアイデアが理解しやすくなります。目の前にあるコップを子細に見れば、それは物体であり、分子であり、原子であり、素粒子であり、クォークであり、超ひもである、ということです。
真空とは超ひもが振動していない状態でしかなく、存在とはひもの振動状態でしかありません。
ひもが振動すれば素粒子、振動しなければ真空。すなわち「あると言えばあり、無いと言えば無い」ものが宇宙空間にぎっしり詰まっているイメージです。
これが有であり無である超ひもであり、まさに空とつながります。
天上に神がいて、魂があり、魂たちが輪廻する牧歌的なイメージからすれば、輪廻も魂も神もなく、全ては空であるという現代物理学と2500年前の釈迦が示した宇宙は、あまりに荒涼としています。
一切は空であり、人生に目的も意味もなく、カルマも来世も無いとしたら、どうやってモチベーションを維持したらいいのでしょうか?お釈迦様も同じ問題と向き合ったようです。
お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開かれたあと、解脱しようとしました。「空」を悟れば、もはや生きる意味はありません。じゃあ、死のうかという気持ちになるのは分かります。
あわてて天使みたいなものが釈迦の周りにやってきて、「ここで死なれては困る、是非悟りを広めて欲しい」と頼みます。もちろん釈迦は断ります。
その断ったレトリックが最高です。
「目の見えないものに、どうやって赤いという色を教えられようか」「味覚が分からないものにどうして砂糖の甘さを伝えようか」という調子です。
中学の頃でしたか、家にあった「世界の名著」で「大乗仏典」を読んで、釈迦って何てクールなんだろうと思いました。まさにその通りだな、と感じました。
それゆえ「悟っていないものに、どうやって悟りを教えようか」という結論に、確かに必然的になります。
もちろん、釈迦は説得されたのか分かりませんが、菩提樹の下から立ち上がり、説法を開始します。
悟りを伝えることの不可能性に挑戦するために、比喩を使います。イエスも釈迦も多くの宗教指導者が比喩を使うのは、言語を使って言語を越えた高い抽象度の情報空間を示すためです。待機説法です。
翻って、神やカルマや輪廻が与える「人生の意味」が無くとも人生は楽しめます。
一切は空と知りつつも楽しめます。
我々はすべてフィクションと分かっていても、筋書さえそらんじていても、バレエやオペラを楽しめます。登場人物の悲劇すら一緒に生きることができます。仮想の世界でも、小説をリアルに感じることができます。リアルな世界でも同じことです。
宇宙は「空」と知りつつも、人生に意味は無いと分かりつつも、精一杯楽しむことはできます。
神ではなく、自分が自分に意味を与え、宇宙に対する機能を与えれば良いからです。
世界の名著〈第2〉大乗仏典 (1967年)/著者不明

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