*ともみんちへようこそ*
こんにちは
ともみんです。
心理学や自己啓発、
自己肯定感を上げるための話の中で
「ゆるす」「許可する」という
ことばが出てくる。
・自分を許そう。
・過去を許そう。
・ゆるしのワーク
・どんな自分もゆるす
とか。
この場合の“ゆるす”は
力の抜ける状態、
握りしめていたものを手放す、
というような
ニュアンスなんだと思うけれど
許すって、
裁くって意味とセットな感覚もあり、
“自分をゆるす”という言葉を聞いただけでは
チカラの抜ける感覚には
ならなかった。
どちらかというと
“許せないのはダメ。ゆるさないといけない!”
という
ちがう課題が与えられたような
感覚。
それ、なぜかなぁ?と考えてみた。
赦される、神の赦しって言葉が
「ゆるす」の背景にはある感じ。
これまた、西洋的じゃない?
相手と自分、
赦される人と許す人に分かれる感じ。
すごく分離されている。
ゆるされないとしあわせになれない、
というイメージも
セットでついてくる。
でも
日本の神様的だと
ゆするもゆるされるもなくて、
オールオッケーが根底にあると思うのよ。
みんな不完全で当たり前。
曲がって当然。
ズレて当然。
間違えるのは当たり前。
神様にゆるされるんじゃなくて
自分で
“禊ぐ”
自分の穢れを祓うって感じ。
川に入り、
濁ったものを清らかにする。
余計な汚れを落とす。
すすぐ。
自分自身で。
川で身体を清める=水に流す!!
誰かの許可なんていらない。
誰かにやってもらうのでもない。
自分で、
リセットする感覚。
濁りを清め、
汚れを落とす。
何度でも生まれ直し、
生き直しができるという
神道の世界観の中では
ゆるされる、
という感覚は存在しないんじゃないかなと
思う。
言霊的に紐解いてみると
本来なら…
ゆるめる、ゆるす、ゆるむ
全部同じ“ゆる”
【ゆ】=お湯、悠々、ゆらり、ゆき、ゆび、ゆれる、ゆらゆら
で、ゆるむ、解放、解かれるって意味がある。
【る】=るんるん、回転。かるい。うごき。
【す】=主体、する、意志がある
【む】=産す、自然なうごき。
【める】=やってあげる。
だから、
“力が抜ける”が
ゆるす、ゆるむ、ゆるめる
の中にある。
誰が??はあいまい。
だから、
本来は…
ゆるす、ゆるめる、ゆるむ
は
ほとんど同じ感覚。
力が抜ける、
それがコトダマ。
だけど、
キリスト教などが入ってきて
「神の赦し」という言葉に翻訳され、
わたしたちは
「許す」「赦す」には
裁かれた先でおきる白黒を
つけた先をイメージするように
なった。
ここでも
西洋文化が
日本人の感覚を上塗りしているんじゃないか!!!
こわいーーー!
実際、
過去に
“ゆるしのワーク”というのをやったんだけど、
ゆるしのワークを受けたきっかけは
“他人にいちいちイライラする自分をやめたい”からだった。
ゆるさねばならない、
と
ゆるすこと=正解、必要なこと
だと、
わたし自身が考えていたから。
でも、実際受けてみてわかったのは
ゆるす=手放す
という感覚だった。
ゆるしかたというのは
過去の自分の傷に気づいて、
癒すことで、
相手の見え方や事実の捉え方が変わって、結果的に許せるよ
という流れだった。
まさに
川に入って、
自分の歪んだフィルターを
クリアにして
真っ直ぐに“事実”を
捉えなおそう、
というものだった。
あのワークで
自分の中の緊張が
ゆるゆる、、、と
とけていった。
これが、ゆるすーなのかと。
言葉って
本当におもしろい。
どういう場面で
その言葉が使われているのか?によって
自分の中で言葉の定義が
なされていく。
一方で
言葉の中にあるコトダマのエネルギーを
感覚的に受け取って
影響を受けてもいる。
その両者に
差異がある時、
よくわからない、という混乱を招くこともある。
それが
言葉のちから。
ふしぎ。
言葉の力を使って
自分に禊ぎ、
穢れを祓う感覚を
やしなえたら、
楽しいだろうな〜と
思っている。
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