季節が変わろうとするような周期で
ふわりとやってくる
ザラリとした感覚がある。
いや、もっと速いスパンで
「虹」を目にするような間隔で訪れている気がする。
それは
「わたしって大した苦労してない」っていう劣等感。
昨日のよる、
またそんなことを思った。
過酷な状況を耐え抜いた、
あれこれ考えられないうくらい体をつかった、
死ぬ気で勉強した経験、
寝ずに看病した、
やりたいことのために必死でお金を稼いだ
とか。
「必死」「苦労」「我慢」「忍耐」「克服」
「乗り越える」「我が身を忘れて」
そんな感覚を味わうほど
自分を追い込めないっていう
劣等感。
「なんでわたしはがんばれないんだろう。」
「なんでわたしは逃げるんだろう」
そうやって自分に対して思う。
だから
例えば・・・
「冷たくて、手が凍りそうで、もう動く力も残っていなかったけれど、
前に進みたいという思いだけで歩をすすめた」
こんな記述を見るだけで
「あーあー、わたしって努力がたりないな。諦めるの早すぎるよな」
ってザラッとした感覚になる。
「苦労していない自分はダメ」
これ、めっちゃ強い。
今も根強く残る。
なんて考えながら、
何かに必死になる経験しなきゃ・・・
死ぬ気で守ったり、打ち込むこと・・・しなきゃ
って思ったまま寝た。
で、今朝、
言葉にかいてみよと思って、
筆をとってみた。
そしたら、
気づいた。
「矛盾しとるがな!!!」
自分に対しては苦労していないことはダメ。
乗り越えるという達成感、味わっていないから、いつまでも自信ないままなんだ!!
とか思うのに
子供たちに日々、何を言っているか?
といえば
「自分をいつもきもちいい状態にすること。
それができるのは
自分しかいない。
逃げることも勇気だよ。
自分で自分を守るんだよ」
「がんばりたければ、がんばればいいーというか、
本当にがんばりたいことってさ、
本人は頑張っているって意識はないと思う。
ただやりたいからやるだけ。
でも、周りからはがんばっているようにみえるだけ。」
(偉そうにw)
(自分のことは棚上げ)
その言葉・・・
自分に向けているはずなのに、
一切の受け取り拒否をしているよ・・・。
そして、気づいた。
あれれ。
「苦労」したいのではなく、
本当に好きで好きでたまらなくて、
できるようになりたくて、
夢中になるって経験を欲しているだけなのかな。
「好き」「夢中」を自分で拾い上げることが
できなくて
(もしくは、気づいてもらえなくて)
悔しいんだな。
とは言っても・・・
「ウキウキすること」「やってみたいこと」が
芽が出た瞬間に摘み取ってきたし、
そんな感覚さえ、
「ない」ということにしてきたから
正直、
それはみつかりそうで
みつからない感覚を繰り返している。
こどものように
無邪気に目の前のことをあそぶ。
「早く学校行きなよ!!時間やで!!」と
言っても、生返事しながら
1本の毛糸であやとりを練習し続ける娘をみて
いいな・・・
と思う。
みつからないよー。
何がわたしのよろこびなんだ?
わからないなら、
手当たり次第、
心が動いたもの
「いいなー」と思ったことは手当たり次第
やってみてもいいのかな。
そんな風に思っていたら、
おじいちゃんのことを思い出した。
おじいちゃんは
貧乏百姓の家に生まれたから、
小さな頃から労働力。
それは成人してからもかわらない。
唯一の楽しみは
村のまつりで青年団で炊く「とりめし」を食べることだった。
働いても働いても
生活は楽にはならない。
現金収入を得るために就職し、百姓と両立するために
交代勤務を選んだ。働きっぱなしだった。
旅行にいったり、ほしいものをかえるようになったのは
母が嫁いだ頃からだったと
父は言っていた。
(おじいちゃんから、その当時の話はほとんど聞いたことなかった)
わたしがうまれたとき、
おじいちゃんは53歳。
おじいちゃんは
「物を買ってあげられる」ことがとってもうれしかったんだと思う。
「何を買うか」ではなく、
みんながほしいっていうものを買ってあげられることがうれしいって感覚だったんだろうな。
「買う」という行為が「旅行」みたいなものだったのかもしれないな。
あそぶということが
できない環境だったおじいちゃんには
趣味がなかった。
趣味をみつけようと
カメラを手にしたり、旅行にいったり、スイミングに通ったり、
グランドゴルフにいったり。。。
あれこれやっていた。
その姿をみていた高校、大学時代のわたしは
「手当たり次第やって、お金の無駄」って思っていた。
「おじいちゃんってすきなことないんだな、むなしいな」って
思っていた。
うまくもない写真を撮り、現像してみんなに配る姿に
「恥ずかしくないのか?」
と思っていた。
でもさ、
おじいちゃんはいつもしあわせそうだった。
いつも
「そのとき思うこと」をただやっていたのかもしれない。
もう、聞くことも叶わないけれど。
ここまで書いてみて
気づいた。
「打ち込めるものを見つけなきゃ」っていう
思い込みのつよさが今のわたしの中にある。
打ち込めるものがあることがしあわせだと
勝手に決めている。
そして、
それが明確じゃない自分はダメだという自己否定。
「よろこび」にさえ、正解不正解をもっている😭
大事なのは
「今この瞬間」だけ。
どこまで夢中になるか?はあまり重要なことではない。
「今、これをやってみたくてやった」
それだけでいいのかもしれない。
打ち込める物がないと不幸か?
っていうと、そんなことはない。
そして、
もうひとつ・・・。
自分のためにお金を使う・・・ということの意味は
「自分の欲しい物とお金を交換する」
自分の欲しい物は物質である場合もあれば
そうじゃない部分もある。
おじいちゃんは
「お金を使えることがうれしい」気持ちとお金を交換していたんだ。
物質だけに注目してみると
人のためにばかり・・・自分のことを置き去りにしているように見える。
でも、
きっと
おじいちゃんは自分のために
そうしていたんだ。
だから、いつだってしあわせそうにしていたんだと思う。
自分を大切する、
自分を満たすってこと
奥が深い。
ものすごく単純なことを
複雑にしているから
奥が深いってことなんだろうけど。
いろいろ
ぐるぐるしたけれど
苦労していないコンプレックスの中身は
↓
自分の打ち込める物を欲している
↓
今この瞬間、どうしたい?
を聞いて欲しい。
そして、
他人と自分を比較しすぎている。
世間の正解を自分の正解にしようとしている、
「自分」という基準が
今は揺れているなあ。
