内藤です
プロフィール1の続きです。
中学では、周囲の反対を押し切り、バスケをやらずにバレーボールを始めました。
正直言うと、バレーじゃなくてもバスケ以外ならなんでも良かったのです。(バスケ好きの方すみません。)
バスケットを「やるもの」として周囲から当然視されることや、兄と比べられることが嫌でした。
まして、もう反面教師としてみていた兄と、同じことは絶対にやりたくなかったのです。
大きな夢も目標もなく、バレーに身を入れてやるということもなく過ごしていました。
そして、中学2年の時、僕の方向性がガラリと変わる出来事がありました。
バスケ部の顧問の先生に話があるからと呼び出されたのです。
「やばい、バスケ部に転部させられる」
そう思いました。
体育教官室で一人ぽつんと待つ僕に、バスケ部の顧問の先生は入ってくるなり笑顔で話してきました。
「バレーはどうだ?」
きた、やっぱり部活の事だ。バスケ部に引っ張る気だ。
そんな心配をよそに、顧問の先生は続けます。
「バスケ部は人数も少なくて、1年からどんどん練習してる。
バレー部は人数が多くて1、2年生はボール拾いばっかりだな。
毎日ボール拾ってるおまえを見ると、無理矢理バスケ部に入れれば良かったな〜
でも、おまえが選んだんだから、バレーを頑張れ。それだけだ。」
中学2年の秋の期末テスト。
それまで、学年120人くらいのなかで、中の下だった僕が、いきなり6番になります。
さらにそれ以降卒業までのテストは、ほぼ1番か2番の成績を収めるようになったのです。
体育教官室に呼ばれて以来、僕の中学生活は一変しました。
まずバレーを真剣に取り組むようになりました。
卒業までに身長190cmになる予定を立て(笑)
実際に190cm用のブカブカの学生服を買ってもらい着ていました。
残念ながらこの予定は未だに達成できていません^^;
当時全日本で大活躍していた中垣内選手に憧れ、同じ大学の筑波大学に進むことを決めます。
この時まだ、どの高校にいくか決めていません。
志望校の欄にも高校ではなく「筑波大」と書いていました。
第1志望から第3志望まで。
先生に「高校は?」 と聞かれても
「高校はまだ決めていません。でも何が何でも筑波大に行きます」
と答えていたのです。
筑波大に入るには、バレーの名門校にいくか、進学校にいくか。
他県の名門校に入ることも考えました。
その場合、下宿代の足しになるようにお年玉や、お小遣い3000円のうち2000円を、母親に貯金してもらうようにお願いしました。
10万円くらい貯めてたかと思います。
今思えば、たったそれだけでは何の足しにもなりませんが、当時自分なりにできる最大限のことだったのです。
しかし、そのお金も兄の大学受験用にすべて使われてしまうことになります。
(兄は能代工業には進まず、バスケ県内2位の近くの高校へ。)
結局、現実的に考えて、バレー部があり、筑波大が狙える県内の進学校に行くことを決めます。
その結果、猛烈に勉強しだして、短期間で6番という成績になったのです。
目的があると、人は強く変われるものですね。
高校に入ると片道16キロの自転車通学。
朝の1時間目の前から補習があり、赤点は60点。
予習も毎日2時間しないと追いつけない進学校でした。
そんな中でもバレー部では1年生からレギュラーになり、県選抜のメンバーにも選ばれるうようになります。
筑波大でバレーをするという目標に一歩一歩近づいているのが日々感じられました。
一方兄は、受けた大学すべて落ち、親が駆けずり回って見つけてくれた実業団のバスケットチームに入ります。
「何にもしなくても、親が全部やってくれる」
そういう兄に、怒りを超えた憎しみを抱くようになっていました。
長男は家を継ぎ、次男は家を出る。
田舎でよくある考えが、うちの場合も例外ではありませんでした。
いずれ家に戻ってきてもらうために親も兄には手も金もかけます。
次男坊の僕は、「あなたはこの家を出て行く人」と、もの心ついた頃から常々言われていました。
県内でも強豪校となり優勝し、3年連続県の選抜チームにも選ばれ、大学受験も合格。
中学から目標にしていた筑波大学に無事入ることができました。
「憧れの場所でバレーができる。」
夢と希望に満ちあふれた大学バレーが始まったのですが、、
入部後わずか1ヶ月で退部してしまったのです。
つづく
→プロフィール3
プロフィール1の続きです。
反抗心でバレーボールを始める
中学では、周囲の反対を押し切り、バスケをやらずにバレーボールを始めました。
正直言うと、バレーじゃなくてもバスケ以外ならなんでも良かったのです。(バスケ好きの方すみません。)
バスケットを「やるもの」として周囲から当然視されることや、兄と比べられることが嫌でした。
まして、もう反面教師としてみていた兄と、同じことは絶対にやりたくなかったのです。
大きな夢も目標もなく、バレーに身を入れてやるということもなく過ごしていました。
そして、中学2年の時、僕の方向性がガラリと変わる出来事がありました。
バスケ部の顧問の先生に話があるからと呼び出されたのです。
「やばい、バスケ部に転部させられる」
そう思いました。
体育教官室で一人ぽつんと待つ僕に、バスケ部の顧問の先生は入ってくるなり笑顔で話してきました。
「バレーはどうだ?」
きた、やっぱり部活の事だ。バスケ部に引っ張る気だ。
そんな心配をよそに、顧問の先生は続けます。
「バスケ部は人数も少なくて、1年からどんどん練習してる。
バレー部は人数が多くて1、2年生はボール拾いばっかりだな。
毎日ボール拾ってるおまえを見ると、無理矢理バスケ部に入れれば良かったな〜
でも、おまえが選んだんだから、バレーを頑張れ。それだけだ。」
真剣にバレーボールに取り組む
中学2年の秋の期末テスト。
それまで、学年120人くらいのなかで、中の下だった僕が、いきなり6番になります。
さらにそれ以降卒業までのテストは、ほぼ1番か2番の成績を収めるようになったのです。
体育教官室に呼ばれて以来、僕の中学生活は一変しました。
まずバレーを真剣に取り組むようになりました。
卒業までに身長190cmになる予定を立て(笑)
実際に190cm用のブカブカの学生服を買ってもらい着ていました。
残念ながらこの予定は未だに達成できていません^^;
当時全日本で大活躍していた中垣内選手に憧れ、同じ大学の筑波大学に進むことを決めます。
この時まだ、どの高校にいくか決めていません。
志望校の欄にも高校ではなく「筑波大」と書いていました。
第1志望から第3志望まで。
先生に「高校は?」 と聞かれても
「高校はまだ決めていません。でも何が何でも筑波大に行きます」
と答えていたのです。
筑波大に入るには、バレーの名門校にいくか、進学校にいくか。
他県の名門校に入ることも考えました。
その場合、下宿代の足しになるようにお年玉や、お小遣い3000円のうち2000円を、母親に貯金してもらうようにお願いしました。
10万円くらい貯めてたかと思います。
今思えば、たったそれだけでは何の足しにもなりませんが、当時自分なりにできる最大限のことだったのです。
しかし、そのお金も兄の大学受験用にすべて使われてしまうことになります。
(兄は能代工業には進まず、バスケ県内2位の近くの高校へ。)
結局、現実的に考えて、バレー部があり、筑波大が狙える県内の進学校に行くことを決めます。
その結果、猛烈に勉強しだして、短期間で6番という成績になったのです。
目的があると、人は強く変われるものですね。
片道16キロの通学
高校に入ると片道16キロの自転車通学。
朝の1時間目の前から補習があり、赤点は60点。
予習も毎日2時間しないと追いつけない進学校でした。
そんな中でもバレー部では1年生からレギュラーになり、県選抜のメンバーにも選ばれるうようになります。
筑波大でバレーをするという目標に一歩一歩近づいているのが日々感じられました。
一方兄は、受けた大学すべて落ち、親が駆けずり回って見つけてくれた実業団のバスケットチームに入ります。
「何にもしなくても、親が全部やってくれる」
そういう兄に、怒りを超えた憎しみを抱くようになっていました。
長男は家を継ぎ、次男は家を出る。
田舎でよくある考えが、うちの場合も例外ではありませんでした。
いずれ家に戻ってきてもらうために親も兄には手も金もかけます。
次男坊の僕は、「あなたはこの家を出て行く人」と、もの心ついた頃から常々言われていました。
県内でも強豪校となり優勝し、3年連続県の選抜チームにも選ばれ、大学受験も合格。
中学から目標にしていた筑波大学に無事入ることができました。
「憧れの場所でバレーができる。」
夢と希望に満ちあふれた大学バレーが始まったのですが、、
入部後わずか1ヶ月で退部してしまったのです。
つづく
→プロフィール3