から紹介します。まづ航空写真から
次に、前回の番号を入れた地図です。
③の梅川に降りる下り坂の細道です。
④の梅川の橋から大ヶ塚南部を見たところ
⑤の大ヶ塚への出入り口で道の先に下り坂がある。

⑥の石川公園で島川の河岸段丘が見える。
⑦の顕証寺の塀と山門
顕証寺の説明板で室町時代には南朝方の石川源氏も滅亡した。
戦国時代に根来衆の僧兵が砦にしていたが、織田信長に攻めら
れ壊滅した跡に、この地に葬られた僧兵大将の大河将盤の墓に
ちなみ、天文年間に芝地を開発した際に、村名を大河塚(だい
がつか)と呼んだことにはじまる。根来の真言宗の寺は破壊さ
れた。戦が続いたので、村人が自衛のために、浄土真宗の八尾
市の久宝寺御坊の顕証寺に頼み、大ヶ塚顕証寺をその通寺とし
1572年開基したことにはじまる。司馬 遼太郎が「河内みち」
で書いた顕証寺を中心とした、自衛の村である。1575年に
は信長により河内高屋城廃城で、1582年本能寺の変で信長
が暗殺されます。
顕証寺(通称は大ヶ塚御坊)の本堂正面
顕証寺の鐘つき堂の山門で修理中です
顕証寺の本堂を横から撮影したもの
⑧からの紹介は次回とします。









