石川数正は豊臣家の家臣となり、豊臣家滅亡
とともに子供の代で松本藩は取り潰されますが、
叔父の家成は徳川家家臣で大名として存続し
ます。家成のひ孫にあたる石川総長はやり手で、
熊本加藤家改易や大阪城代として功績をあげ、
本藩より独立して1万石の支藩を建て、さらに
石川氏の始祖の地である大阪南河内に、本人の
希望で1万石を加増されます。白木の陣屋につい
ては6月4日のブログで紹介済み。
南河内を領地加増で希望した事情を書きます。
源平合戦の際に同じ源氏で平家方だった源季貞
に攻められて大敗を喫し、一族の多くを失ったが、
源頼朝が平家を倒すと、源義家六男の源義時を祖
とする石川氏は勢力を回復した。南河内に勢力を
拡大する。鎌倉末期に楠木正成の勢力拡大に伴い
一族の多くは故郷を離れて各地に離散した。楠木
正成の配下になり河内に残った一族も少なくない
が、一時下野の小山氏を頼っていた一族が、蓮如
に随行して三河に流れ着き、定住したのが数正の
先祖で、松平氏(徳川氏)に仕え、代々筆頭家老
を務めた。柳営秘鑑にある徳川最古参の安祥譜代
七家の一つであり、三河の浄土真宗門徒の総代で
もあった。故郷に残り楠木正成の家臣となった一
族の石川氏は南河内の大ヶ塚城を拠点にしていた。
大ヶ塚の地図です。大阪芸術大学の南東にあり。
東側を梅川が、西側を島川が流れ、天然の堀を形成し、
その河岸段丘の上にあります。
地図①の地点で、島川の橋があり、さらに長い上り坂が続く。
地図②地点で、写真の壱須何神社は大ヶ塚城跡である。
神社の由緒は古代の蘇我氏の本支族がその祖廟として、
宗祖石川宿禰を祀ったものと考えられる。
②より少し南から撮った写真で壱須何神社入り口
壱須何神社内にある、戦前に貴族院議員の子爵
石川成秀(総長の子孫ではなく本家の伊勢亀山藩の藩主)
が建立した石碑です。内容は先祖の源義家からの家系と、
石川源氏の一族で楠木正成の家臣となった先祖が、南朝
のために戦ったことなどを記念して書いています。
2013年8月16日から始まる、11回MMD大会本選用の
予選動画です。趣味で作っているので見たい人は本選見てください。
今回はカットしているので40秒もありません。
なかなか自分の思うような動きに出来ないので、才能無いです。(ノ_・。)
下のアドレスを選択してマウス右クリックで見れます。
高画質設定で見てください。
http://www.youtube.com/watch?v=SRdPnzP1zjc&feature=c4-overview&list=UUbkYr_BwsoCg-zdBjosb3bQ
ニコニコ動画はsm21398576です。
③からは次回にします。




