右矢印New『観念のジェンガ崩し』

右矢印「私は誰か?(Who Am I ?)」

右矢印エゴという諸刃(もろは)の剣を無力化する方法

右矢印「世界一わかりやすい」エゴの解説

右矢印“エゴ滅の刃”

右矢印苦しみが炎となり、エゴを焼き尽くす

右矢印「いま」を味方にする

右矢印「願い事がなくなりますように」

 

悟りシリーズ続きです。

 

 

 




いままで散々、
「本当のわたし」「本当のわたし」
と書いてきましたが、


「『本当のわたし』って、いったい何やねん?真顔

 


というのが今回の記事です。



「本当のわたし」とは何か?
 

 

それは、実は

言葉では表現できないもの
(だと僕は思ってる)



「なんじゃそりゃー!ムキー


とお思いでしょうが、実際そうなのだから仕方ありません(笑)



しかし、あえて不完全になることを承知で言葉で表すと、


大いなるすべて、存在、宇宙、愛、魂、スピリット、仏性、内なる神、I AM THAT、静寂、無、空間、至福


などなど、となり、
このブログの読者さんはきっとどこかですでに聞いたことがある言葉でしょう。


もちろん僕もどこかで聞いたことがありましたが、
正直、わかったような、わかってないような(まぁたぶんわかってないだろうなキリッ)状態であり、


「わかった」と言いながら、
どこかの誰かさんのように、
東京駅で電車待ちの列に、チンピラに割り込まれて反射的にキレてしまうようでは、
 

「ほら見たことか、やっぱりわかっていなかった」
 

ということがはっきりするわけであります。


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では、どうすれば知れるのか?わかるのか?

 

やはりここでも、


「本当のわたし?ああ、知ってます。○○ですよね」
と私は知ったかぶりしている、と気づく!
 

「私がそうだと思っているのは、もしからしたら違うのかもしれない」、

と気づく!

のが第一歩で、

気づくのが重要!なのであり、

 


「じゃあ、本当のわたしとは何なのか?」


と、ラマナ・マハルシの小冊子にあるように、
根気強く問い続けるしかない、
と僕は思います。

(ある日突然、何の前触れもなく悟る人や、
三途の川を渡りかけて戻って来て悟る人もいるけど、
それは例外としておいた方が無難です)

 

 

たとえば、
ヒッツは、スカイダイビングをしたことがあり、
スカイダイビングがどんなものか、説明することは一応できますが、
言葉では100%僕の体験を伝えることは不可能だし、
経験者でも全員同じ感想とは限らないし、

結局は、
スカイダイビングはスカイダイビングをやった人しかわからない
もの。

きっと「本当のわたし」も同じなのだと思います。


体験してみないとわからない


ものなのだと思います。


「何だよそれえー
と思うかもしれませんが。

そう割り切った方が、頭で理解しようとしてエゴだけを膨らませずに済みそうです。



そして、きっとそれは、万人共通の体験ではなく、本人にしかわからないもの、だとも思います。

 

でも、本人がそうだとわかっていれば十分だと思います。

 

「それは悟りではないよ~ニヤニヤと自称覚者から言われたとしても、です。


スカイダイビングでも、人によって、

「浮いてるようだった」
「ものすごいスピードで落ちてた」

と感想の違いがあるようなもの。
 

「私はスカイダイビングをした、こうこうこうだった」
という疑いようのない確信があればそれで十分なのだと思います。



いずれにしても、
ほんの一瞬でも、たとえ0.1秒でも本当のわたしを直接体験できると、
いままで私だと思っていたものが、わたしではないことがはっきりとわかり、
アイデンティティがエゴから、本当のわたしへのシフトが始まるのは確かです。

 


ちなみに、僕の体験でいうと、
無みたいな感じでした。
無なんだけど、すべての色を混ぜたら白になるように、すべての色を含んだ白、みたいな感じ。
目に見えるすべてがわたし!目に見えないすべてもわたしだ!
みたいな、空間のような感覚です。
しかし、こう書いた時点ですでにそれは歪められてしまっている。
(そもそも僕の体験が、真実だったか嘘だったかは知らん!w)



悟った人の話を聴くと、
悟りにも段階(プロセス)があり、上記のような記述はまだスタート地点で、これから徐々に深まっていくらしいです。(たぶんこの段階では10%くらい)
まれに、いきなり90%くらいいく人もいるそうですが。


ちなみにこうみると、悟りには、
 

・スタートとゴールがあり
・悟ってない人、悟った人がいる
 

ように見えるけど、実際は、

 

・すでに悟っている

・全員が悟っている

 

というのが真実であり、
 

いつか書いた白隠禅師の


「衆生すなわち仏なり」

(すべての人が仏である、の意)
 

なのであります。
 

 

そうすると、若い頃の道元さんが思った


「すでに悟っているのなら、なぜ悟りを開かねばならないのか」
 

という疑問が出てくるし、
これが悟りのパラドックスなんだと思います。
(これについては追々書けたら書こうと思います)



しかし、
そもそも、よく考えれば、
「本当のわたし」や「悟り」を言葉で他人にも理解させることができるのなら、
 

とっくの昔に、
ブッダとかキリストが説明していただろうし、
その方法もちゃんと文書で保存されていたでしょう。

 

(ちなみに、ブッダやキリストは自分で書物を残していません。ブッダやキリストの教えとして現在伝わっているのは、ブッダやキリストの死後ずぅ~~~~~と後になって、第三者が書き記したものです)

それができないから、昔から現代に至るまでいろんな人が解説しようとして、いろんな表現が出回り、それを思考でもってアレコレ考え、


結果的に、わけがわからなくなり、
 

ああでもないこうでもない、とエゴだけを膨らますことになっているのかもしれません。
(もちろんこのブログもその一種であることは間違いありません!)



よって、
 

「本当のわたし」や「悟り」は、
言葉で表すことはできないものであり、
これらは体感して始めて意味がわかるものであって、

言葉だけ読んでも何の意味もない
 

ということになるのだと思います。


だからラマナ・マハルシは、書物なんて読まずに「私は誰か?」という自らへの質問に徹しなさいと言っているのだと思う。


禅でも、
 

「不立文字」(ふりゅうもんじ)
(悟りの道は、文字・言語によっては伝えられるものではないという意)
 

と言ってるし。



また、悟りがいつ訪れるかについては、
 

目覚めの準備ができたとき
 

なんだそうで、
まったく「なんだそれ!びっくり」と言いたくなるのですが、


道元さんでさえも


「万法に証せらるるなり」
(悟りの方から訪れる→つまり自分では悟れない、の意)
 

と言っているので、
そういうもんなんだ、とあきらめるしかありません。



だから、あれこれ頭で考えて答えを出そうとせずに、
 

座禅とか
瞑想とか
自然と触れ合うとか

ワクワクすることやりまくるとか
日常生活で「気づき」を増やしていくとか
「私は何か?」と自問するとか
※「誰」だと人をイメージしてしまうため、「何」とした方がいい気がするので、このブログではそう表記させていただきます)

「悟れないときはいくら努力しても悟れないし、悟れるときはなにもしなくても悟れるさ照れ
 

くらいの気持ちで、

 

一切期待せずに、
ただただハートにしたがって、
 

そういうことを続ければいいんだと思います。






まぁ、僕はそれしかできないから、そうしてるだけなのですが。

 

 


 

 

 

本日もありがとうございました!

さて、今日も人生楽しみますか!

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