奇跡のリンゴ 2のつづきです。
木村さんが体験した
神話の一つの形式 死と再生の神話
の話を書いていきたいと思います。
1985年の夏の盛り 7月31日の話だ。
いわき山山麓に広がる一面のリンゴ畑に、夕暮れが尾とずれていた。
どの畑もひっそりとして人影はいない。
夏のこの時期、畑での作業は、虫に食われたリンゴの実を積むことと、農薬撒布する
ことぐらいだ。
その農薬撒布もスプレーヤーのおかげで、時間がかからなくなった。
対象時代から使われている農機具だが、改良も進んで一頃はやったスーパーカーのよ
うに、スマートになった。
性能も飛躍的に進歩したから、農薬撒布は、朝の涼しい時間帯の2・3時間で終わっ
てしまう。
こんな夕方遅くまで畑にいる必要はない。
畑の下草は、芝生の様に整然と刈り込まれ、手入れの行き届いた木々の枝には、葉が
生い茂りたわわに実ったリンゴは、まだ青いけれど重みでどの枝も大きく撓っている
。 この分なら、今年も豊作間違いないだろう。
忙しい収穫の季節を目前にして、この日本有数のリンゴ産地は、今日も静かな夕暮れ
を迎えていた。
ただ 一か所だけ、無残な例外があった。
結うまでもない 木村の畑である。
リンゴ農家なら、だれもが目をそむけづにはいられない。
無残に荒れはてたその畑の真ん中に、木村がぽつんと座り込んでいた。
東麓のこのあたりからだと、いわき山はリンゴの木々の上に、ぽっかりと浮かんでい
る様に見える。
他の畑なら、茂った葉が邪魔になる所だが、その畑からはやせ細った枝枝を透かして
頂上が赤く染まったいわき山が、やけに大きく見えた。
けれど木村は、その壮大な景色には気づいていない。
さっきから、ずっと目の前の地面を見つめていた。
いや その地面だって、本当の意味では見ていなかった。
夏の日差しに焼かれた顔には、深い溝のようなしわが刻まれている。
まだ、30歳の半ばを過ぎたばかりの働き盛りだが、酷い苦痛を、ジッとがまんして
いるようなその顔は、まるで老人だった。
目の焦点はどこにもあっていない。
もう 何を見ればいいかさえ わからなくなっていたのだ。
彼が自分の無力を悟り リンゴの木に、どれだけ真剣に頭を下げようが、かれないで
と頼もうが、荒れはてた畑は 荒れはてたままだった。
この畑だけではない。
彼のよっの畑の800本のリンゴの木が衰弱して、かれかけていた。
何も打つ手が思い浮かばない以上、今はまだ、かろうじて生きているこのリンゴたち
も、やがて病と虫に負けてかれていくしかない。
全てのリンゴの木がかれて、全てが終わりになるだけだ。
自分が、今何を成すべきか
答えはすでに出ているのだ。
今すぐすべてを諦めて、皆と同じ栽培方法に戻るしかないのだ。
けれど。。。 そこまで考えたところで、思考はいつも止まってしまう。
それはもう 何百回も 何千回も考えたことだ。
太い鉄の鎖に繋がれてでも居るかのように、そこから先に一歩も考えが進まない。
自分の力では、どおしてもやり始めてしまったことを、ここで止める踏ん切りがつけ
られなかった。
木村は自分が思っているよりも、はるかに心の深いところで、その夢と結びついてい
たのかもしれない。
夢に取り付かれていた。
どおして こんなことになったのか
最初は ほんの思い付きだったのだ。
遠くに高い山が見えた。
自分はあの山頂まで行けるだろうか?
ふと そお思いついて、登りはじめただけなのだ。
手に負えないなら 途中で引き返せばいいと思っていた。
手に負えないどころではなかった。
登れば上るほど 山頂は遠くなった。
6年登り続けて、山が自分に高すぎることを、思い知らされただけだった。
ところが、無が夢中で登っているうちに、それが生きがいになっていた。
この山を登りきるために、自分はこの世に生まれてきたのだと思った。
「無農薬でリンゴを栽培する」 それが、自分の天命なのだ。
歯を食いしばって、そのことに打ち込んでいる時に、雷に打たれたように、はっきり
とわかったことがある。
ここで自分が諦めたら、もうだれも、れをやろうとはしないだろう。
自分が諦めると言うことは、人類が諦めると言うことなのだと思った。
木村は、いつしか その夢を実現するためだけに生きていた。
木村の夢は、木村そのものだった。
けれど その夢は潰えたのだ。
木村あきのりに出来ることは、もう何もない。
夕日は薄れ 空には星が瞬き始めていた。
地面を見つめていた木村は、我に返ったように、あたりを見つめていた。
物置代わりに畑の入口に置いてある廃車の荷室に一束のロープがあった。
リンゴ箱を軽トラックの荷台にくくり付けるためのものだ。
そのロープを引っ張り出すと、西の空にかすかに残った光に翳してみた。
もう何年も使っていないから、古びていたんでいた。それに少し細い。
3本の荷造りロープを縄のように編んで、手際よく一本の太いロープにした。
いつも
物思いは同道巡りに終わるのだが、その日は思考を、もう一歩だけ前に進めることが
できた。
答えの出せなかった問題へのあざやかな答えを思いついたのだ。
よく考えてみれば、もう何週間も前から、この答えは見つかっていた。
後は実行に移すだけだ。
木村はロープの仕上がりを確かめると、リンゴ畑の間の道を上り始めた。
目の前にはいわき山が黒い影になって聳えている。
誰かが見たら、しんこうの深い村人が時期外れのお山参詣にでも出かけるのかと思っ
たのかもしれない。
津軽地方の農家では、遠い昔から五穀豊穣を祈願して旧暦8がつ1日の深夜から、いわ
き山に登り翌朝のご来光を拝む風習があったのだ。
老人のような険しい顔が30 代の男の気楽な表情を取り戻していた。
誰にも見つからない所まで登って、そこで死のうと木村は思った。
全ての原因は自分なのだ。
自分が死ねばこの全てを終わらすことができる。
そんな簡単なことに、何故気がつかなかったのだろう。
この世に生まれた意味を、自分は果たせなかった。
ならば これ以上、生きる意味はない。
悔しいとか 無念とか
そお言う思いは、どこにも無かった。
死ぬことを怖いとも思わなかった。
この何年間も背負い続けた自分には重すぎる荷物をおろせると言う開放感があるだけ
だった。
やれることは全てやったのだ。
これ以上すべきことは、もう何もない。
生きていても家族に迷惑をかけ続けるだけだろう。
自分が居なくなれば、みんな今よりは幸せになれるに違いない。
無責任きわまりない考え方だけれど、どおしても、自分が死ぬと言う選択が、悪いこ
ととは思えなかった。
どれくらい登っただろう。
足下に影ができていることに気がついて、振り向くと、東の空に巨大な月が上ってい
た。見事な満月だった。
こんな月を見るのは久しぶりだ。
眼下には弘前の夜景が広がっている。
何て綺麗な夜だ と、思った。
月や町の灯りだけでなく、夏の夜空も 暗い山の道も 足下で泣く虫の音色も 何もか
もが美しかった。
世界は自分が思っていたよりも、ずっと 美しい場所だった、
その世界を去る今になって、そんなことに気づくのも皮肉な話だけれども、だからと
言って 思い直そうと言う気持ちもなかった。
重荷を捨てたから、この世の美しさが、これだけはっきり見えるのだ、
今はこの景色を楽しみながら自分が、行くべき場所へと行き着こう。
ロープを握りしめ 踏み出す足の一歩 一歩を、慈しむように進んで行った。
その足下で、一本の小枝が折れ音に驚いた鳥が、木立から飛び立った。
もしその鳥が下界を見下ろしていたら、明るい満月の下山道を登っていく木村の姿が
見えたことだろう。
そしてその姿が、小暗い木立の中へと消えるのを
「弘前の夜景がずいぶん綺麗だったなぁ」 何で、弘前ってこんなに綺麗なのかなぁ
って思った。
7月の31日だから、下界では丁度ねぶた祭りの前の晩だ。
死のうと思っているわけだから、もちろん 明るい気持ちではなかったよ。
だけど、死ぬと決めたらよ。
苦しいことを全部忘れてしまうのな。生活の苦しさも
世間の批判も 何もかもな。
家族に苦労をかけていることも あの人に、こお言われたとか この人にこんなことさ
れたとか すごく苦痛に思っていたことが、きれいさっぱり消えてしまった。
いやぁ ほんとに、カッコいい話ばっかりではないんだよ。
ドロドロした気持ちも一杯あったんだ。
何だかんだ言ってもさ 死んでそこから逃げようとしたわけだからな
死ななきゃ夢を諦められなかったと言えばカッコいいけどよ 卑怯と言われても仕方
がない
家族や周りの人からしたら、本当に自分勝手な男だよな
ただ あの時のことを正直に言えば
それで、すっかり気持ちが軽くなった
思い残すことなんて何もない
何日も風呂に入っていなくって、久し振りに風呂に入った時のように、サッパリとし
た気分でいわき山を登って行ったんだ。
熊が怖いとも思わなかった。 昔わさ 山にも実りが結構有ったでしょ
今みたいに、ちょくちょく熊が出ることもなかったんだけどな。
ただ、時々鳥が驚いて木の枝を落とすの。
その音が、やたら大きく響いて、鳥だと分かっていても、そのたびに心臓が飛び出し
そうになった。
あれだけは何とも怖かったな それでも結構高いところまで登ったよ
途中に渓流があったからそれも越えてな
2時間ぐらいは登ったんではないかな もう、この辺りで良いかと思って見回すと、
丁度良いぐあいの気が見つかった。
よし ここにしようと決め手、持ってきたロープを枝に投げたんだ。
そのロープの端が指をスルリと抜け勢い余ってあらぬ方向へと飛んでいった
このごになってもヘマをする
何てダメな男なんだと思いながら、ロープをひろいに、山の斜面を降り降りかけて、
木村は異様なものを目にする。
月の光の下にリンゴの木が有った
まるで魔法の木のように、そのリンゴの木は輝いていた。 {つづく}