色即是空。
↓↓↓お時間のない方は矢印部分はざっとお読みください。
仏教の根本教理といわれる。この世のすべてのものは恒常な実体はなく縁起によって存在する、という仏教の基本的な教義。空即是色と対をなす。
目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。
Wikipediaより。
私たちが日常的に経験する色(物質的な存在)は、その根源や本質において空である(実体を持たない)ということ。つまり物事の本質は固定された実体ではなく、常に変化し、空であるという考えといえます。
この教えは、人間が執着することから解放され、真の自由を得るための道を示しているとされます。色(物質的な存在)に執着せず、その背後にある空の本質を理解することで、苦しみや煩悩から解放されるかもしれません。
小学館のサイトより。

↑↑↑↑以上が一般的な解釈である。
さて、
①「我是日本人」=私は日本人である。中国語では是はbe動詞のようなはたらきをする。
②三蔵法師が天竺から持ち帰ったものは仏典だけでなく数学も伝えた。インド数学最大の発見は「0」zeroだとされる。今は日中で「零」を使うが、これはもともと「しずく」。ゼロではないがかといって「わずかにはある」。fewである。三蔵法師は当初ゼロを「空」を以て表した。
二点、まずはご理解ください。

小林正観さんは、少し違う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、「お釈迦さまは、もう少し違うことを伝えたかったのではないか?」と思っています。
「色」とは、「幸、不幸」「軽い、重い」「大きい、小さい」といった人間の為す勝手な解釈のことをいうのではないか。
「空」とは、評価も、論評も、性格付けもされていない中立の状態をいうのではないか……。
私たちが「楽しい」とか「つまらない」と評価している現象は、実体として独自に存在するわけではありません。淡々とした「何の色もついていない空の現象」が続いているだけです。
お釈迦さまは、
「現象はもともとニュートラルであり、ゼロであり、色がついていない。それなのに、私たちの心が、『遠い、近い』『重い、軽い』『つらい、楽しい』『悲しい、嬉しい』といった色を勝手につけているにすぎない」
ということを言いたかったのではないでしょうか。
「200ccのコップに、100ccの水が入っている」状態は善でも悪でもありません。ただコップに半分水が入っているという状態です。
100ccの水を「半分しかない、悲しい」と思うことも、「半分もある、嬉しい」と思うことも、ひとつの「色」であると、お釈迦さまは唱えているように思います。
すべてが「空」=ニュートラルの世界で、評価論評をしているのは、「私」です。色のついていない現象を指して、「これは気に入った、これは気に入らない」と解釈する自分がいるだけです。
ということは、「空」である現象を「嬉しい、楽しい、幸せ」ととらえれば、過去のことも、今日以降のことも、すべて幸せに感じるのではないでしょうか。
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禅の世界で「無になれ」と言っているのは、プラスでもないマイナスでもない「ゼロ、ニュートラルになれ」ということなのではないかと思っています。小生とてもこんな境地にはなれませんが。
