匙なめて童たのしも夏氷
さじなめて わらべたのしも なつごおり
子どもがサジまでなめるようにかき氷を旨そうに食べている
スケートの紐結ぶ間もはやりつつ
スケートの ひもむすぶまも はやりつつ
(作者が見ている子どもであろう)スケート靴の紐を結んでいる間にも、早く滑りたい気持ちでいる
つきぬけて天上の紺曼珠沙華
つきぬけて てんじょうのこん まんしゅしゃげ
真っ赤な花を咲かせた彼岸花だが、空は突き抜けたような青い色である
螢得て少年の指みどりなり
ほたるえて しょうねんのゆび みどりなり
蛍をうまく捕まえた少年の指は、蛍の放つ光で緑色になっている
・・・・・以上は例解小学短歌・俳句辞典(三省堂)より
掃苔や餓鬼が手かけて吸へる桶
そうたいや がきがてかけて すえるおけ
墓の掃除をしようと墓地に来たが、桶の水を餓鬼が持ち上げて飲んでいる
餓鬼はいわゆる子どもの蔑称であるガキでなく、畜生道に落ちた亡者のことである。昭和7年。盧溝橋事件や南京事件などの暗い世相を反映しているのかもしれない。
かりかりと蟷螂蜂の皃を食む
かりかりと かまきりはちの かおをはむ
上記との連作で、これも穏やかではない。カマキリが蜂を捕まえて、その顔の部分を食べている。用いられているのは貌(かお)の俗字である。
夏草に汽罐車の車輪来て止る
なつくさに きかんしゃのしゃりん きてとまる
機関車でなく汽罐車。汽罐とはボイラーのこと。こちらのほうが水蒸気で動く感じが出ている。「や」「かな」を用いない山口のスタイルだと言われる。昭和10年、大阪駅のようである。京浜より阪神の方がはるかに工業生産の大きかった時代である。字余り気味だが句としてはかなり自然。
・・・・・以上は日本文学全集『近現代詩歌』(河出書房新社)より
双方、つまり子ども向けの三省堂と成人向けの河出に共通して選られているのが
海に出て木枯帰るところなし
うみにでて こがらしかえる ところなし
孤独というものを詠んだつもりだったが、図らずも世間は特攻隊のことを想像した。昭和22年の作であるから。後には作者自身も納得したそうである。
※栗の切り絵に取り組んでおります未だ形を為さず。
