19-030『中国の冬~私が生きた文革の日々』梁恒/サイマル出版会★★★★★
文化大革命をまともに経験した1954年生まれの(出版当時)青年の回顧録である。
邦訳は当時TBSのキャスターだった田畑光永である。先に田畑は『天雲山伝奇』を邦訳している。まさに文化大革命とは何だったのか、おぼろげに知識人が語り始めていた時期だった。版元は、もうなくなったが、勢いのあったサイマル出版会である。話題作を次々に出し、大学生協書店の棚で一角を占めていた。
邦訳は当時TBSのキャスターだった田畑光永である。先に田畑は『天雲山伝奇』を邦訳している。まさに文化大革命とは何だったのか、おぼろげに知識人が語り始めていた時期だった。版元は、もうなくなったが、勢いのあったサイマル出版会である。話題作を次々に出し、大学生協書店の棚で一角を占めていた。
文革について此処で委細は述べないが、共産党というより毛沢東支配下の中国で起きた権力闘争であって、党の指針がころころ変わり、政治家の失脚のみならず、一般民衆までも巻き添えになった。
両親の離婚、派閥間の争い、レイプ、自殺、殺し合いまでも目撃し、あるいは経験してきた著者の克明な記録である。書いている小生は赤面しながら白状するが、老舎『駱駝祥子』と並び、我が人生における最重要書籍と思っている。田畑光永の日本語に無理がなく、理想的な翻訳書だと言える。想像だが、これが出版された1984年当時、この本を手にした中国研究者や学生は多かったのではないだろうか。反面、非常に惜しいことだが、まず誤植が目立つ。発行を急ぐあまり校正がきちんとなされていなかったのだろう。それから巻末の出版目録をみると、広告戦略を欠いていることがうかがえる。最新刊の署名著者名概要を数十冊並べているだけである。中国に興味のある読者が本書を手に取るであろうことを考えれば、その関連書のみを紹介しておく策戦もあっただろう。明確な戦略を持ち得なかったサイマル出版会は世紀が変わる前に消滅した。
どこかの出版社が、たとえば広告のうまい幻冬舎がリバイバル出版したら、今でも売ることは可能だろう。
両親の離婚、派閥間の争い、レイプ、自殺、殺し合いまでも目撃し、あるいは経験してきた著者の克明な記録である。書いている小生は赤面しながら白状するが、老舎『駱駝祥子』と並び、我が人生における最重要書籍と思っている。田畑光永の日本語に無理がなく、理想的な翻訳書だと言える。想像だが、これが出版された1984年当時、この本を手にした中国研究者や学生は多かったのではないだろうか。反面、非常に惜しいことだが、まず誤植が目立つ。発行を急ぐあまり校正がきちんとなされていなかったのだろう。それから巻末の出版目録をみると、広告戦略を欠いていることがうかがえる。最新刊の署名著者名概要を数十冊並べているだけである。中国に興味のある読者が本書を手に取るであろうことを考えれば、その関連書のみを紹介しておく策戦もあっただろう。明確な戦略を持ち得なかったサイマル出版会は世紀が変わる前に消滅した。
どこかの出版社が、たとえば広告のうまい幻冬舎がリバイバル出版したら、今でも売ることは可能だろう。
本書に話を戻すが、最終章は「危険は盲従にあり」と題している。共産党の指導に疑問を差し挟むことは許されないという、盲目的服従が文革を生み出したと梁恒は表現しているが、これはどこか遠い国の過去の出来事ではない。
以前書いたが、「神」なることばを気軽に用いる風潮は嫌いだ。そして誰かが神と崇めるアイドルを貶したら不当なまでの攻撃を受けるなどくだらない。
たびたび、弊宅(つまりこのブログ)で小谷野敦について触れているが、小谷野は「同じ作家の作品ばかりを続けて読む人間の気持ちは分からない。自分なら飽きる。」旨書いている。これは存外いい比喩なのかも知れない。エンターテインメント小説を読んだら純文学を読む。小説を読んだら次はノンフィクション、といったように読書家なりのバランスを図るのがいいのではないか。
堺屋太一に関していうなら、このバランス感覚に優れた作家ではなかっただろうか。書籍、テレビ、フィールドワークなど複数の情報源を持っていたのだと思う。念のため申し上げるが、『平成三十年』自体は決して面白い小説ではなく、あくまでも近未来の予想に重点が置かれたものだと小生は評価している。
次回は辻村深月について書く。高く評価しているのではないことをお断り申し上げておく。