白村江の戦い(その2) | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・っということで、白村江の戦いそのものについては学ぶべき点はあまりない。

たぶん、残っている資料が僅かだからであろう。

だが、いくつかの興味深いことは見出すことができる。

1)日本が送った42,000人という兵力の正体はなんであったのだろうか。

2)当時の外交がこれほど活発に行われていたことの驚き。

3)なぜ、日本がこれほどの大軍を朝鮮に派遣したのかその理由。

4)高度な航海技術。

・・・・・・

例によって、ぼくなりの解釈をしてみたい。

1)兵力の正体

これほどの兵員を動員できたということは、朝廷にそれだけの権力があったことの証明であろう。

では、その兵力とはどこから来ているのだろうか。

溯ること紀元前後、「漢書」によれば倭の国には100あまりの小国が分立していたと記されている。

紀元2世紀の後漢書には倭の国から160人ほどの奴隷が献上されたと記されている。

奴隷ですぜ!!!(奴隷は戦いの副産物であることを思い出そう。)

同じく後漢書には147年には倭の国において大戦争が起きたと書かれている。

縄文時代から弥生時代に入り、稲作が普及したことにより貧富の差、即ち支配する者とされるものに分かれていったことになっている。

当然、支配するのであるから「軍事力」によるものと考えるべきだろう

そこで、皆さんご存知邪馬台国の卑弥呼の登場である。

当然、彼女は戦いの勝者であったはずである。

邪馬台国の時代から武士の登場とされる12世紀まで、朝廷が主導的な立場にあったものの、通奏低音のように軍事力が背景にあったことは、この白村江の戦いや、蝦夷征伐などを見れば当然のことと思われる。

さて、その軍事力の実態であるが、常備兵、即ち職業軍人だったのか、農民たちを臨時に招集したのか、もう少し勉強してみなければぼくには分からない。

少なくとも、武士の登場というものは突然出現したのもではなく、それまでの朝廷の持っていた軍事力が朝廷から権力を奪って自らが政権に就いた現象に過ぎないのだろう。

だとすれば、朝廷=貴族≠武士という図式は当てはまらないものと、とりあえず解釈しておこう。

だって、軍事力を持った貴族は軍人ではないとはいえないだろうから。

2)活発な外交

白村江の戦いの以前、日本は朝鮮半島の南部に「任那(みまな)」という支配地域を保有していたことは知らなかった。(あるいは習ったけれど忘れていた?)

後の秀吉による朝鮮出兵、日本の植民地支配は、現代人には明らかな「侵略行為」と映るかもしれないが、歴史を辿ると日本が朝鮮半島に進出するというのはそれほど不自然ではなかったのである。

百済が日本に出兵を求めたのも、この任那という過去の実績があったからで、現代において日本の侵略を謝罪しろと韓国が主張するのはとても皮肉ではなかろうか。

3)日本が大軍を朝鮮に派兵した理由

任那つながりで百済との関係が深かったので、友好のために(?)派兵したというのが表面的な解釈である。

敗戦後、難民となった百済の人々を日本は受け入れている。

だが、百済を助けることは即ち唐と戦争することである。

これほどのリスクをなぜ犯したか、義理と人情だけでは説明がつかない。

実際に、唐の軍門に下るという国家的な危機を招く戦いであった。

現代人が考える以上に、日本と朝鮮半島は繋がりが強固であったのだろう。

その繋がりとはなんなのか、今後の疑問として残したい。

4)高度な航海技術

学校では遣唐使は命がけだったと教えられた。

小野妹子とか鑑真とかの苦労話は有名である。

ところが、この白村江の戦いだけを例にとっても、42,000人の兵力を800隻で海上輸送したのである。

現代人が思うより以上、自由に中国や朝鮮を行き来していたに違いない。

・・・・・・

以上、長くなってしまいゴメンなさいね。

しかも、興味のない堅苦しい話しばかりで。<m(__)m>

-おわり-