前回「もともとエーテルとは自分ひとりのものではなく、他と共有しながら自然界に満ちるものです」(開放系エーテル)と言いましたが、端的に示す言葉があります。
「キミたちが居て、ボクが居る」(写真は「円照寺つきのわチャンネル」より)
これはなんと、ギャグとして用いられたものです。吉本新喜劇のチャーリー浜(故人)によるものです。
中途半端にキザな容姿のチャーリーさんが、いきなり舞台に登場するなり「御免下さい」の代わりに
ごめんくさい
こりゃまったくさい
あ~くさ!
とトボけた調子で言うと他の人々はズッコケるという例の調子です。さらに
あんた誰?
ぼくチャーリー
あ、キミたちが居て、ボクが居る
とつづくわけです。吉本新喜劇のギャグは同じパターンをなんども繰り返すのですが、不思議と飽きないし、むしろ客は、そのギャグが出るのを待っているのです。
これって古典落語と実は同じなのでは?と私は思っています。落語ファンにとっては、すでに知っている話をどう噺家が処理するかという楽しみに変わってきているのですが、このときの観客の反応こそがまさに「開放系エーテル」という共有の喜びではないでしょうか?
コテコテの関西のギャグでは、ずっこけるというところで、観客も一緒にずっこけるという共有感覚を味わうわけです。
この感覚がさらに進むと、おもしろいことに「時間は未来から流れて来る」という感覚につながります。
「すでに知っている話やオチを今また見ている」ので、未来から流れてくる情報を味わっているのです。
私達は時間は過去から未来へと流れている…と信じていますが、霊界の原則では「時間」はありません。事実、肉体を置いているこの3次元から、4次元をこえて5次元までいくとそうなるそうです。
しかし私達の意識には時間という認識がこびりついているので、なかなか「時間は未来から流れて来る」という感覚にはなりません。頭でわかろうとしても現実的には抵抗が生じます。
しかし、上述のようなギャグとか噺家のパターンになると、もうすでに抵抗がありません。
こんな些細なところに次元を超えるヒントが隠れているのです。
次元を超えないと、「水」の持つ自我(ただしい自分)の発見にはなかなかなれないのです。
