エゴと個性 | だるまんブログ

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生きる知恵である陰陽五行についてだるまんと語るブログ。『だるまんの陰陽五行』(三冬社)より発行。

立川談志さんがなくなりましたね。私個人としてはあの芸風は好きではなかったのですが、興味はありました。
五行であの方の生き方を当てはめてみると、まさに「水」そのものと言えるのではないかと思います。そのことについてちょっと考えてみましょう。

生き方を五行に当てはめてみるとだいたい以下のようになります。

「木」…思想やイメージを大切にする生き方。哲学者、思想家、教授、芸術家
「火」…直感を大切にする生き方。宗教家、占い師、賭博師
「土」…現実を大切にする生き方。一般人、銀行家、医者、政治家
「金」…正義を大切にする生き方。逆に享楽的な生き方も含む。武道家、革命家、風俗関係
「水」…個性を大切にする生き方。起業家、芸能人、研究者

まあ、おおまかな分類ですが、要は「水」の生き方というのは「土」的な常識感を重視する生き方に比べて個性を重視する生き方ということです。

時代的に言うならば、今までが「土」の時代で、現在は「水」の時代に向かう途中であるとたびたびこのブログではお話しています。つまり時代の政権や為政者や民衆の作った法律やルール、常識に守られつつも規制されることが普通だった時代から、個々の判断や行動が勝る時代になりつつあるということです。

言い換えれば、「水」的な生き方というのは、ある意味ワガママで自分勝手な所があります。人がなんと言おうが「自分がこう思ったらこう」!ということろがあります。その自我の出し方のレベルにもいろいろとあると思いますが、それによって個性的と言える人とワガママな人の違いが出てくるのです。

で、談志さんはどうだったかというと、師匠の小さんと対立して落語協会を脱退したり、自分の流派を作り王者として君臨したり、もう唯我独尊の人生だったといえましょう。しかしその反面、落語に対する徹底したプロ意識は多くの後続する者を呼び寄せました。個性的ともワガママとも言える「水」の人だったということです。

ここで、検討しておくことがあります。来るべき「水」の時代というのは今の「土」の時代に比べて、はるかに規制の少ない(一部の人間が残りの人間を支配することではなく)一人ひとりの人間的成長を大切にする時代なのですが、その成長の仕方によってはワガママというエゴを振り回す人と、個性を出しつつ調和の中での自我の煌きを持つ人とに分かれてくるということです。

この違いはどこから起きるかというと、「水」の前段階での「土」でのあり方に関わってくるのです。「土」で集団の中で培われることで、いわば個性を押し殺しても全体性を重視することを強いられることで、本当の個性とは何かを学ぶのです。そしてその結果として自分の内にある影とも言うべき習性や考え方を捨てることで、しっかりと「水」に立てるわけです。
それをしないで「水」に行くと、自分はなんでもやり放題で、他の奴らがついてこれないだけだ…という考え方に至ってしまうのです。

ふたたび談志さんに戻りましょう。まあ、落語のことなので、芸風ということで片付けられるとは思いますが、彼はいつも『自分の落語が理解できないやつは帰れ』という姿勢でした。人を楽しませるはずの芸能がいつのまにか、個性を主張する芸術に変化していたわけです。自分の落語は高級だから低能な奴にはわからないなんてことも言っていましたね。

なんとなく芸能は低級で芸術は高級というイメージがありますが、仮に宗教家、たとえばイエス.キリストが『私の言葉を理解できないやつは地獄に堕ちろ』と言ったとすると、それはもう宗教家ではありません。一種のアジテーター(扇動者)となってしまいます。ただ個性を主張することが必ずしも高級だということにはならないのです。
そもそも高級、低級という上下関係で片付けてしまうのは「土」的な発想です。つまりワガママ的な「水」とは「土」的なものをひきずっている「水」とも言えるのです。

従って、談志さんという人は、とても「土」という時代の中で頑張って「水」的な部分を芸能という身近な分野で見せててくれた人だと思うのです。しかし、あくまで「土」的な世界観の中での「水」でした。それはある意味仕方ないことでしょう。でも五行を学ぶ者にとっては、とても参考になります。彼の落語も面白いです。それを聞きながら、今後も学ばせていただきましょう。談志さん、ごくろうさまでした。