選択理論マニアの会 代表のnatsukoです。
昨日の、選択理論って甘いですか? という記事に
思いがけず(笑)たくさんのコメントをいただきました。
選択理論の本質を愛して下さっている方々のレスポンスを受けて
ちょっと(いや☆かなり)喜んでおります

ありがとうございます

さて、今日の記事は、教会での礼拝のメッセージからインスパイアされて…
(そなの。実は私こう見えて
プロテスタントのクリスチャンなんですわ…)今日の礼拝のメッセージは、聖書の中でもとても有名な
放蕩息子のお話。
聖書に親しい人には説明のいらない箇所だと思いますが、
かいつまんで要約すると・・・
ある資産家のところに二人の息子がいて

、その弟の方が、父親に財産の生前贈与をしてもらい

彼はそのお金を持って家を出たのだけれど


放蕩のかぎりを尽くして
、落ちぶれてしまう・・・
自分を悔い改めて
、使用人の一人にでもしてもらおうとその息子が恥を忍んで実家に向かうと
父親は遠くから走りよって来て
彼を抱きしめ、歓待する・・・
というお話。
父(神様)の愛は深く大きいのね…っていうこの感動的なお話の裏で、
もう一人の息子(兄)はというと・・・
何年もオヤジの言いつけ守って

真面目にやってきた俺の立場はどーなるんだよー

俺が友達と飲み会するときは
子山羊の一匹も出してくれなかったのに

金使って遊び回ってた弟のためには
太った子牛で歓迎かよー、なんでだよー

とおムズカリ・・・
…っと、↑この部分はかなりの意訳でございます

上記と合わせて本来のお話を読みたい方はこちらをどうぞ→★
グラッサー博士は著書の中で
過日記事にしました「致命的な7つの習慣 」以外にも
外的コントロールの習慣について触れています。
そしてその中の1つとして、
比較する
ということも挙げているんです。
比較するというのは、ただ単に「比べる(測る)
」だけに留まらず、自分の中にある基準(正しさ)によって
相手を裁いたり
、あるいは、
外側にある基準(評価)のために、
自分の持っている幸せを失ったりする

副作用があるようです。
ついつい私たちは、
自分を誰かと比べて自分の立ち位置を確認したくなるのだけれど
「比較する」という外的コントロールによって不幸を招いている出来事は
実はけっこうたくさんあるんですよね・・・
