イメージ 1

 学生時代に読み、部分的に印象的だった箇所はあるにせよ、全体的にはほぼ意味不明のままだった小説『死霊』に関して、執筆者本人の見解が記述されている。1975年5月初版のこの本を、最近、古書店で見つけたので読んで見た。本文は120頁で、そのあと65頁も注釈が書かれている。今時、埴谷雄高を卒論のテーマにする学生がいるのかどうかしらないけど、『死霊』を解釈する上では、この本は絶対に持ってないと始まらないだろう。

 

 

【『死霊』の大きな構成】
埴谷  『死霊』は難解というふうにいわれていますけれど、一応工夫はしてあって、ある章とある章は、音楽でいえば対位法ふうになっていて、まず陰うつな章があれば、つぎには明朗な明るい章があり、そしてまた、今言ったようなもうろうとした不透明な章もある、というふうになっています。
 そのために、現実にはないような深い霧の中から帰ってきて、三輪家へ辿り着いたのが第5章で、そこで兄三輪高志の精神の内奥が吐露されます。この三輪家の諸兄弟の精神の内奥が、それぞれこの小説の山場になりますが、その最初の山場が5章ということになります。(p.10-11)
 読んでいた当時、対位法なんてウルトラ全然意識していなかった。埴谷さんは、西洋の文学に大きく影響されていたから、音楽のような構成を採ることで文学芸術を完成させたかったのだろう。
 ドストエフスキーが小説の構成法として取り入れていたポリフォニーの精神性は、日本的な精神性とは相いれないけれど、このような音楽的構成を基盤として読み解ける小説とか絵画って、ヨーロッパの作品には少なくないはず。
  《参照》  『音楽を愛する友へ』フィッシャー(新潮文庫)
         【ポリフォニー:カノンとフーガ】
 僕の作品は対位法になっていると言いましたが、意識=存在についての七面倒臭い、観念的な、思弁的な部分の前には、スパイを殺すといった生々しい、一種現実的な場面を置いておいて、その前に〈死者の電話箱〉とその後の〈意識=存在〉の話のあいだにはさんでおくという具合にやっているのです。(p.48)
 「対位法とかいう手法のために、こんなコンガラガッタことされたら、読者は誰だって付いていけっこないじゃん」と思うよね。

 

 

【三つの部屋】
埴谷  僕の中には3つの部屋があるんです。左の端から言っていくと、その第1の部屋は自意識の部屋で、その隣に、革命の部屋がある。そしてその右隣に、宇宙論の部屋があるわけです。だから読者が、それぞれの部屋の入口からそのまま真直ぐ入っていけば、僕はそこで極めて単純な事しか語ってないということがわかる筈です。
 ところが、にもかかわらず難解だと思われるのは、(p.13)
 部屋を横に辿るとアマルガメイト(混交)されて難しく思ってしまうだけだ、と書かれている。
 これら3つの部屋の隣りあわせということには、もちろん僕自身の刑務所体験ということがあります。そこで自意識と革命と宇宙がつながってしまったのですね。(p.14)
 刑務所という閉じた世界で生きていたら、精神はマジで自由を求めて飛翔したがるだろうから、この『意識 革命 宇宙』という3つの部屋の並びは、著者の生きた時代なりに、よく分る気がする。ただ、普通の人なら、おそらく『意識 革命 現実』になってしまうだろう。

 

 

【現実から仮象へ、文学で通りぬける】
埴谷  僕は3つの部屋と言いましたけれども、その裡2つの部屋はまったくカントから教えられた大きな部屋なのですね。そこの入り口は僕の出発点で、いわば僕の現実感覚をかたちづくっている。ところが、カントはその部屋の奥へ入っていってもその向う側へ通りぬけられないと僕にいったのです。すると、その通りぬけられないことが僕達の限界なら、そこで僕自身の課題はきまったと僕は思ったのです。その通りぬけられないところを、たとえインチキでも手品でも、見せかけでも、通りぬけることにしよう。但し、一応手品らしくない文学でそれをやってみようというのが、僕の方法になったのです。この「通りぬけられないところを通り抜けたように見せる」境い目が、つまり、仮象へ向かう想像力の場で、先程からの「現実感覚」があやしくなってくる場所ですね。しかし、いくらあやしくても、その仮象のバベルの塔の構築を支えてくれるものは新しく見つかった。それは、魂の渇望の最も露骨な原型であるデモノロギーだったんです。(p.31-32)
 「なるほどね」と思ってしまった。
 密教的な観想技法を用いるか、ヘミシンクを活用すれば、意識を飛ばして行きたい星にいけるけれど、埴谷さんの場合は、悪魔学(デモノロギー)という異次元参入術を駆使して仮象の世界へ行くことを文学で表現したかったわけだ。
 で、なんで悪魔学なのか、その出会いについて以下のように書かれている。

 

 

【悪魔学(デモノロギー)】
埴谷  刑務所から出てから、・・・中略・・・、図書館へよく通った。ところが、九段の下にある大橋図書館に豪華な大判の美術本、例えばハウゼンシュタインの『古代における裸体人』『中世における裸体人』『近代における裸体人』やヴェラスケスの大判の画集といったほかに、奇妙なことに、デモノロギーに関する本がまことに沢山あることが解ったんです。それらはすべて安田蔵書という印があるので、恐らく安田財閥一族の結核にかかった青年でも金などかまわず取り寄せたものでしょうね。その特別図書は館員のすぐ前の机の上で読まなければならないんですけど、そのとき、僕は悪魔学こそ人間の渇望の源泉をもっとも鮮やかに示している、ということがわかったんです。(p.32-33)
 僕の胸の底には、カントばかりでなしに、今言ったデモノロギーがかなり層厚く横たわっているのです。(p.34)
 これで、タイトルを『死霊』とした理由がわかった。死霊(しりょう)は生霊(いきりょう)の対語で、死んだ人の霊の意味だから、必ずしもすべてが悪霊ではないけれど、悪魔学をイメージさせる単語である。
 九段下にあった「大橋図書館」の蔵書は、現在、港区芝公園4丁目7−4にある「三康図書館」に引き継がれているらしい。悪魔学の大判の本、見てみたい気もする。

 

 

【埴谷さんの「魂の渇望」のかたち】
埴谷  ぼくはそういう自己救済や自己完結とはまったく無縁ですね。僕の本名は般若豊というんですけれど、それがどうなったっていい。僕にとっての問題は、ひとびとのなかでの自分といったものではなく、私たちの長い精神史のなかで何を考え得るだろうかということですね。・・・中略・・・。僕がひょっと前を眺めると、ブレイクや、ポーや、ドストエフスキーが、いってみれば、ゴールなきマラソン競争のなかを走っている。・・・中略・・・。そのマラソン競争に横から飛び入りして僅かでも走りたい。それが僕の「魂の渇望」のかたちですね。(p.41-42)
 いかにも文学者的、でもないか。
 スピリチュアルを体験的に学んだ人は、「文学による救済」って「底の知れた知のお遊び」と感じているだろうから、「救済文学」というのには、「阿保臭っ」って見向きもしないだろうけど、埴谷さんのこの記述なら、読んで見てもいいと思うかもしれない。
 でも、チャンちゃんはまだ『死霊』を持っているけど、やっぱり再読しないだろう。たとえスピリチュアルな内容を含んでいるにせよ、文学はどこまで行っても文学、底が知れている。
埴谷  魂の渇望は妄執と言い換えてもいいのですよ。そして、自分の現在を否定して、ほかの何ものかになりたい、とおもうのですね。 (p.74)
 この表現だと、「魂の渇望」は、完全にタンハーになっている。重いし暗い、即ち周波数が低い。故に輪廻囚われの界を出ることはできない。
 30年以上前の文学って、多くがこんな感じのものばかりではないだろうか。だから、再読したいとはゼ~~ンゼン思わない。
 現代という時代は、暗さを好まない。ましてや渇望、妄執、執着といった囚われた偏狭な意識など、魂本来の行き先を誤らせるマイナス因子以外の何物でもない。このような意識で宇宙に向かえば、そりゃあ行先を先導するのは悪魔学の召使になるわけでよ。
 こんなのは嫌。即、バイバイ。

 

 

【言葉の凝縮願望】
埴谷  〈意識=存在〉とか、〈還元物質〉とか、〈虚体〉とか、いろんな言葉を僕は使っていますけれど、目指すのは1つです。僕はラマルメ的というか、ある巨大な内容を1つの言葉のなかに密封してしまいたいという一種の言葉の凝縮願望がある。(p.76)
 こういうのって、高次元を体験した上でそれを表現したがっている人には、わかりやすい願望。
 でも、それはやはり無理で、その願望は、文学表現を衒いたい人固有の空虚な希望に過ぎない。
 禅で「不立文字」というように、この世次元の〈頭〉が駆使する言葉では表現できない世界があるのだから、そこは異次元世界を体験して〈ハート〉で感受して了解するしかない。凝縮表現はできない。
 仮に、人類全体が、脳の活動領域を広げて、高知能存在になれば、凝縮単語が新に作られる可能性はあるけれど、人類全体がハートで知ることが可能になれば、言語表現は不要になってしまう。
 この意味でも、文学の役割に、先は見えている。
 対談者の吉本隆明さんが得意とする思弁的な評論文学など、進化した先の人類から見れば、袋小路内で堂々巡りを楽しむ趣味人の集まり以外の何ものでもない。進化レベルでいうなら娘さんの吉本ばななさんの方が、はるかに先に進んでいるだろう。

 

 

【ウイリアム・ブレイクがいう天国と地獄の結婚】
埴谷  僕は、〈虚体〉とか、〈意識=存在〉とか、〈還元物質〉というように1つの言葉に何かを結晶させようとしていますが、僕の場合、ブレイクのいう天国と地獄の結婚が最も底にある根拠でしょうね。相反し、拮抗するものを何とか1つの結晶体にまで持ってゆきたいのが、白紙に向きあうという作業になるんですね。(p.97)
 「あっ」と煌めくウイリアム・ブレイクが言及されていたので、書き出しておいた。
  《参照》  『天と地は相似形』横尾忠則(NHK出版)
          【天界の感応者、ウイリアム・ブレイク】
  《参照》  『宇宙人の魂をもつ人々』スコット・マンデルカー(徳間書店)《中編》
          【ニューエイジへの兆し】
  《参照》  『宇宙につながる第8のチャクラ』ジュード・カリヴァン(徳間書店)《後編》
          【ウイリアム・ブレイクとアルビオン】
  《参照》  『星へのプレリュード』 佐治晴夫 黙出版
          【映画:『博士の愛した数式』 】

 

 

【フラグメント】
埴谷  僕は意識的に、詩やフラグメントを『死霊』のなかの1章に必ず並べているのです。例えば今度の5章に、〈幽霊とは粗大な肉体の眼に映る一事物にして、精神の眼に映るものはヴィジョンなり〉という言葉が出てきますが、これはブレイクの言葉で、ブレイクが死んで30年以上経ってからギルクリストというひとが出した最初のブレイク伝にでてくるのです。ぼくはそれをウイリアム・バトラー・イェーツのブレイク論から孫引きしたのですけれども、こういうフラグメントを僕は普通以上に重要視しますね。一挙に対象にせまれないか、これまでに優れた凝集語がないかとやたらに見廻しているんです。
 1章にも、〈悪魔はなにものをも創りなす能わず、ただ神の造りませしものの上にひたすらその外観を変じて異形なるものの象を投ぐるのみ〉という言葉が出てきますが、これはアウグスチヌスの言葉です。先程の悪魔学の耽読時代、英語で読んだ本からのこれもまた孫引きですが、どうもそういうところばかりに目がとまる。(p.77)
 へぇ~。
 欧米人が捉えていたスピリチュアル世界の表現は、その時代の進化度を知るのに役立つ。
 埴谷さんが活躍していた当時は、スピリチュアルという書籍分野がなかったから、『死霊』という文学小説で表現するしかなかったのだろう。それにしても、対位法とかを用いて、ややこしすぎる構成にしてしまったのが欠点だったと、チャンちゃんは思う。
 それがなければ、もっと耽読できる小説だったはずである。

 

 

 『死霊』に関しては、下記リンクにも写真を掲載し、印象的だった箇所のことを書いている。
  《参照》  『星へのプレリュード』佐治晴夫(黙出版)
           【光速と念速】

 

 

 

<了>