《前編》 より
【このステップを踏む】
この二つがペアで行われればいい。
感情とは、腹の底から湧き上がるものであって、理屈で片付けられるものではない。逆恨みであろうと何であろうと、腹が立つ物は腹が立つ。もちろん、怒って良い。大切なのは、十分に怒り狂って気が済んだら、冷静に物事を見つめ、逆恨みであったことに気付くことである。
このステップを踏むことこそが、人が成長するということなのだ。 (p.101)
感情に蓋をせず、気が済んでから冷静に物事を見つめる。このステップを踏むことこそが、人が成長するということなのだ。 (p.101)
この二つがペアで行われればいい。
【感情に満ちた人間】
心の二面性を知り大いなる起伏を生む感情を統合させることができると心得ている人は、感情の発露を妨げないからこそ、トラウマを解除することができる。トラウマが解除できれば、カルマの解消になっているのであり、それによってアナハタ・チャクラを始めとするいくつものチャクラ開花の障害となっている心理機制が除去され霊性豊かな人になれる。
《参照》 『ハートの聖なる空間へ』ドランヴァロ・メルキゼデク(ナチュラルスピリット)
【ワークショップ結果上の問題】
人間として生きている世界では、人間(の心)に精通した人間こそ、より神に近い役割を担えると云い得るだろう。
宇宙的な波動が変容しつつある現代にありながら、何年属していても霊性が何ら開発されず、進化していないのなら、その宗教団体なりスクールなりワークショップは、まがい物であると言ってしまっていい。
一般人でも決して怒らず当たり障りなく生きている人は、いわゆる善人ではあっても確実に凡人の域である。そのような人々が語る愛や真理というのは、おそらく凡庸な世界を肯う程度のありふれた内容なのである。
私のもとで、長期間に渡って学ぶ生徒やクライアントのほとんどが、感情抑圧型人種である。
私は、日本人の割には珍しく人の目を気にしない人種なので、自然と人の目が気になって仕方のない人が、私に惹き付けられる。
多くのセラピストやヒーラーが善人を装うし、多くのクライアントは、セラピストやヒーラーに善人であることを求める。人によっては、善人を超えて、聖人であることを求める者もいる。
だか、善人を装った時点で、もうすでにその人は善人ではない。偽善人である。また、聖人とは、善に満ちた者ではない。
少なくとも私は、善人であるよりも、人間でありたい。聖人であるよりも、人間でありたい。それも、最も人間らしい人間でありたい。なぜなら、最も人間らしい人間であることが、万能なる神の意識を生きることだからだ。(p.103-103)
一般的に聖人がどのような人であると理解されているのか知らないけれど、聖人とは感情の世界を超えた人である思っているなら、それは単なる空想であり妄想である。私は、日本人の割には珍しく人の目を気にしない人種なので、自然と人の目が気になって仕方のない人が、私に惹き付けられる。
多くのセラピストやヒーラーが善人を装うし、多くのクライアントは、セラピストやヒーラーに善人であることを求める。人によっては、善人を超えて、聖人であることを求める者もいる。
だか、善人を装った時点で、もうすでにその人は善人ではない。偽善人である。また、聖人とは、善に満ちた者ではない。
少なくとも私は、善人であるよりも、人間でありたい。聖人であるよりも、人間でありたい。それも、最も人間らしい人間でありたい。なぜなら、最も人間らしい人間であることが、万能なる神の意識を生きることだからだ。(p.103-103)
心の二面性を知り大いなる起伏を生む感情を統合させることができると心得ている人は、感情の発露を妨げないからこそ、トラウマを解除することができる。トラウマが解除できれば、カルマの解消になっているのであり、それによってアナハタ・チャクラを始めとするいくつものチャクラ開花の障害となっている心理機制が除去され霊性豊かな人になれる。
《参照》 『ハートの聖なる空間へ』ドランヴァロ・メルキゼデク(ナチュラルスピリット)
【ワークショップ結果上の問題】
人間として生きている世界では、人間(の心)に精通した人間こそ、より神に近い役割を担えると云い得るだろう。
宇宙的な波動が変容しつつある現代にありながら、何年属していても霊性が何ら開発されず、進化していないのなら、その宗教団体なりスクールなりワークショップは、まがい物であると言ってしまっていい。
はっきり断言しておく。神は感情的である。
愛を知っている者は怒るし、真理をマスターしている者も怒る。怒らないのは、偽善者と傍観者とトンチンカンな行者である。(p.107)
そう、自分自身の体験から言っても、怒らない人にトンチンカンな行者は少なくない。そのような人々は、意馬心猿と評される心が訓練されて整っているから怒らないのではなく、感情の振れ幅を抑えるために感度を下げるという生き方を身につけてしまっている。そのような生き方をしているのだから、当然学びは浅く弱くならざるを得ない。だからトンチンカンが改まらない。愛を知っている者は怒るし、真理をマスターしている者も怒る。怒らないのは、偽善者と傍観者とトンチンカンな行者である。(p.107)
一般人でも決して怒らず当たり障りなく生きている人は、いわゆる善人ではあっても確実に凡人の域である。そのような人々が語る愛や真理というのは、おそらく凡庸な世界を肯う程度のありふれた内容なのである。
【執着を手放す?】
でもまあ、いずれであれ、執着心が薄く意志の弱い人は、人生を深く味わえず人生の高みに至れない可能性が高いということの方が大きな問題である。そういう人々は、感情の深みに入りたがらないようなトラウマができてしまっているか、成功体験がなさすぎるのだろう。そこを解除するのが先である。
執着を手放す? とんでもない。執着心がなければ人は努力しないし、成長もしない。
霊的成長を果たすためには、ひとつの物事にとことん固執することも、時には大切である。
とことん感じて、とことん見つめて、とことん味わって、とことん挑戦する。ひとつの出来事から真理を得る精神とは、執着によって可能となるのだ。(p.128)
この場合の“執着”は“意志の強さ”に置き換えて表現することができるけれど、どっちで表現した方が適切なのかは、読む人によるのかもしれない。霊的成長を果たすためには、ひとつの物事にとことん固執することも、時には大切である。
とことん感じて、とことん見つめて、とことん味わって、とことん挑戦する。ひとつの出来事から真理を得る精神とは、執着によって可能となるのだ。(p.128)
でもまあ、いずれであれ、執着心が薄く意志の弱い人は、人生を深く味わえず人生の高みに至れない可能性が高いということの方が大きな問題である。そういう人々は、感情の深みに入りたがらないようなトラウマができてしまっているか、成功体験がなさすぎるのだろう。そこを解除するのが先である。
【カルマ克服へのスリーステップ】
自分自身の中に根づいている“認識の枠組み”と、そこから生ずる“思考パターン”と“行動パターン”こそが現れ出るカルマの様相であると理解し、この悪循環から抜け出るためにこそ、「認識を改め、思考を中和し、行動を起こす」のだということ。
また、カルマについてはいろんな表現の仕方があるけれど、以下のように、カルマに関する認識を改め、思考を中和してから、行動を起こすのもいいかもしれない。
この悪循環から抜け出したいのであれば、「認識を改め、思考を中和し、行動を起こす」。それ以外に、カルマ克服への道はない。
このスリーステップを一度マスターすることは、あなたの人生に、無限の可能性が広がることを約束する。(p.137)
“認識の改定”とは、例えば恐れのようなネガティブな概念を「否定し排除しようとする」のではなく、「必要なもの、あって当たり前のもの、恐れがあるからなんだと言うんだ」というように“思考を中和”すること。このスリーステップを一度マスターすることは、あなたの人生に、無限の可能性が広がることを約束する。(p.137)
自分自身の中に根づいている“認識の枠組み”と、そこから生ずる“思考パターン”と“行動パターン”こそが現れ出るカルマの様相であると理解し、この悪循環から抜け出るためにこそ、「認識を改め、思考を中和し、行動を起こす」のだということ。
また、カルマについてはいろんな表現の仕方があるけれど、以下のように、カルマに関する認識を改め、思考を中和してから、行動を起こすのもいいかもしれない。
物事は全て「表裏一体」であり、ひとつの特徴が裏目に出たか、表目に出たか、その違いがそこにあるだけである。
カルマとは、ひとつの個性や特徴が裏目に出たまま、特定の癖をくり返している状態とも言える。
つまり、裏目に出てばかりの特徴を表目にひっくり返してやれば、めでたくカルマ清算が達成されるという、シンプルな発想も持っていたい。(p.162)
カルマとは、ひとつの個性や特徴が裏目に出たまま、特定の癖をくり返している状態とも言える。
つまり、裏目に出てばかりの特徴を表目にひっくり返してやれば、めでたくカルマ清算が達成されるという、シンプルな発想も持っていたい。(p.162)
【誠実であるということ】
問題を指摘し説明を求めれば、さんざん逃げまわった挙句、「上が決めた」と嘘を言い、自分が言い出したことですら、途中から「スタッフに聞いてください」と匙を投げ対面を避けるための努力をするのである。これが某宗教団体のコミッティといわれる人々の呆れた実態である。公務員より杜撰で、その精神性はまるで幼稚園。
ご利益を餌に数集めカネ集めばかりしている宗教団体なんかに何年属していたって、このような有様なのだから、カルマの解消などできていっこないのである。人生の貴重な時間が学びのないまま100%無駄になっている。
《参照》 『アセンションの超しくみ』サアラ(ヒカルランド) 《後編》
【経験から学ぶ:自分にとっての真実にするまで】
【勇気を持って行動し、経験を創造する】
誠実であるということは、相手のニーズに応えることでも、常にいい人であることでもない。誠実であるということは、相手に対して正直であること。そして相手に対して、一方的に背を向けないことである。
常にオープンであることは、常時問題を解決しながらスムーズな人間関係を築いていけるだけでなく、お互いを深く知り合い、お互いを高め合うことが出来る。そして、いずれそこには不動の人間関係が築かれる。(p.139)
これは、カルマに取り組む人々なら、率先して通らなければいけないことなのに、宗教団体ですら運営に関わっている人々に不誠実さが目立つのである。常にオープンであることは、常時問題を解決しながらスムーズな人間関係を築いていけるだけでなく、お互いを深く知り合い、お互いを高め合うことが出来る。そして、いずれそこには不動の人間関係が築かれる。(p.139)
問題を指摘し説明を求めれば、さんざん逃げまわった挙句、「上が決めた」と嘘を言い、自分が言い出したことですら、途中から「スタッフに聞いてください」と匙を投げ対面を避けるための努力をするのである。これが某宗教団体のコミッティといわれる人々の呆れた実態である。公務員より杜撰で、その精神性はまるで幼稚園。
ご利益を餌に数集めカネ集めばかりしている宗教団体なんかに何年属していたって、このような有様なのだから、カルマの解消などできていっこないのである。人生の貴重な時間が学びのないまま100%無駄になっている。
《参照》 『アセンションの超しくみ』サアラ(ヒカルランド) 《後編》
【経験から学ぶ:自分にとっての真実にするまで】
【勇気を持って行動し、経験を創造する】
【カルマ】
過去の読書記録に書き出してきたけれど、個人のカルマや人類のカルマにとって不可分な低層四次元がすでに消滅した、ないしさらに消滅しつつあるという話は、いくつものスピ系著作に書かれている。
《参照》 『船井幸雄がいままで口にできなかった真実』船井幸雄(徳間書店)《後編》
【消滅した低層4次元】
このようなことは、従来の地球では起こり得なかったことであり、最近(今月)は、既にカルマが「ない」状態になっていると告げている情報すら得ている。その情報が事実であるなら、地球はカルマを脱したことにより次元上昇が加速してゆくはずである。(しかしそれが物理的な地球にどのような影響をもたらすのかは不明。もしも、今後の地球が大規模なアースチェンジを経なくて済むのなら、集合意識に蓄えられていたカルマが本当に消えていたことになるのだろう。我々凡人は数年後の結果でその様相を納得するしかないけれど・・・)
仮に、カルマのない世界が実現していても、それを知らずに従来通りのカルマ観を持ち越している人や、自発的にカルマによる学びを選択したい人は、自らカルマの世界を創造して従来通りの学びを継続することは可能。
スピ系の情報に詳しい人々は、現在の地球が未体験ゾーンに入っていることを認識しているだろうから、このようなこともあり得るのだということを記述しておいた。
「カルマ」とは、幾度も繰り返されてきた転生や経験の中で、未だに学び得ていないレッスンのことである。(p.152)
カルマは、潜在意識という個人のレベルとは別に、民族や人類レベルの集合意識にも蓄えられている。
がっかりするかもしれないが、人が人である以上、カルマから完全に解放されることはない。なぜなら、私たちは個人であるのと同時に、集合意識の領域において全人類とつながっているからである。
たとえあなたが、どれだけ自分と向き合って個人レベルで多くの課題を克服したとしても、人類全体の集合意識のカルマが存在する以上、あなたもそれを共有することとなる。(p.152-153)
現在の地球は、類稀なる時のタイミングを迎えつつあるのだから、かえってガッカリしない情報があってもいいと思う。たとえあなたが、どれだけ自分と向き合って個人レベルで多くの課題を克服したとしても、人類全体の集合意識のカルマが存在する以上、あなたもそれを共有することとなる。(p.152-153)
過去の読書記録に書き出してきたけれど、個人のカルマや人類のカルマにとって不可分な低層四次元がすでに消滅した、ないしさらに消滅しつつあるという話は、いくつものスピ系著作に書かれている。
《参照》 『船井幸雄がいままで口にできなかった真実』船井幸雄(徳間書店)《後編》
【消滅した低層4次元】
このようなことは、従来の地球では起こり得なかったことであり、最近(今月)は、既にカルマが「ない」状態になっていると告げている情報すら得ている。その情報が事実であるなら、地球はカルマを脱したことにより次元上昇が加速してゆくはずである。(しかしそれが物理的な地球にどのような影響をもたらすのかは不明。もしも、今後の地球が大規模なアースチェンジを経なくて済むのなら、集合意識に蓄えられていたカルマが本当に消えていたことになるのだろう。我々凡人は数年後の結果でその様相を納得するしかないけれど・・・)
仮に、カルマのない世界が実現していても、それを知らずに従来通りのカルマ観を持ち越している人や、自発的にカルマによる学びを選択したい人は、自らカルマの世界を創造して従来通りの学びを継続することは可能。
スピ系の情報に詳しい人々は、現在の地球が未体験ゾーンに入っていることを認識しているだろうから、このようなこともあり得るのだということを記述しておいた。
【「意識の準備」と「意思の準備」】
カルマ清算に取りかかるために、まず必要なこと。それは、「意識の準備」と「意思の準備」である。
意識の準備とは、「観察者」としての視点を確立することから始まる。観察者とは、日常の自分自身の思考パターンや感情、精神の働きを、決してジャッジすることなく、ただじっと見つめる意識のことを言う。(p.159)
霊的探究道を歩みはじめたものの中には、カルマ清算を最小限に、己のスピリット即ちハイアーセルフとつながることばかりに尽力する者が多い。だが、己の内側に横たわる闇やネガティブな情念への拒絶や抵抗が根強く残留している段階にありながら、高次からのメッセージや情報を受け取ろうとしても、残念ながらそれらは、本人の願望や都合によってどこまでも歪曲されてしまう。(p.160)
時期が訪れるとどの魂も、まるで子供が成長の過程で自然とお気に入りの人形やぬいぐるみを手放すように、次のステップへとコマを進める。
その時期は、己の人生に自己責任を負うことへの意思確立と、霊的成長へ向けての欲求やパッションと共にやって来る。(p.161-162)
霊的成長をサポートする立場で記述された著者の本は、体験に基づいているからこそ理解しやすく、また有益な情報が多い。スピ系のワークショップ体験者なら、特にそう思うだろう。意識の準備とは、「観察者」としての視点を確立することから始まる。観察者とは、日常の自分自身の思考パターンや感情、精神の働きを、決してジャッジすることなく、ただじっと見つめる意識のことを言う。(p.159)
霊的探究道を歩みはじめたものの中には、カルマ清算を最小限に、己のスピリット即ちハイアーセルフとつながることばかりに尽力する者が多い。だが、己の内側に横たわる闇やネガティブな情念への拒絶や抵抗が根強く残留している段階にありながら、高次からのメッセージや情報を受け取ろうとしても、残念ながらそれらは、本人の願望や都合によってどこまでも歪曲されてしまう。(p.160)
時期が訪れるとどの魂も、まるで子供が成長の過程で自然とお気に入りの人形やぬいぐるみを手放すように、次のステップへとコマを進める。
その時期は、己の人生に自己責任を負うことへの意思確立と、霊的成長へ向けての欲求やパッションと共にやって来る。(p.161-162)
【必要なのはハート】
ヒーラーやチャネラーが、上質で良質なセラピストであり人間であるために必要なのは、サイキックな能力ではない。そこに必要なのは、ハートである。オープンなハート、そして気高き意識と意志とパッションである。
オープンなハートは、宇宙の意志をこの物質界において具現化するために、最も重要で不可欠な要素なのだ。ハートは、人間の肉体に準ずる代表的な7つのチャクラの中で、その中心を担う。
ハートチャクラが完全にオープンとなることが、天と地を繋ぐことを可能とする。つまり、ハートチャクラがしっかりと機能すれば、宇宙の叡智と宇宙の愛を、物質界での日常生活の中に浸透させることも、宇宙の意志を現実レベルで具現化することも可能になるということである。
残念ながらサイキッカーの多くは、このハートチャクラに幾重にも課題を溜め込んでいる。(p.228-229)
《参照》 『ハートの聖なる空間へ』ドランヴァロ・メルキゼデク(ナチュラルスピリット)オープンなハートは、宇宙の意志をこの物質界において具現化するために、最も重要で不可欠な要素なのだ。ハートは、人間の肉体に準ずる代表的な7つのチャクラの中で、その中心を担う。
ハートチャクラが完全にオープンとなることが、天と地を繋ぐことを可能とする。つまり、ハートチャクラがしっかりと機能すれば、宇宙の叡智と宇宙の愛を、物質界での日常生活の中に浸透させることも、宇宙の意志を現実レベルで具現化することも可能になるということである。
残念ながらサイキッカーの多くは、このハートチャクラに幾重にも課題を溜め込んでいる。(p.228-229)
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