《中編》 より

 

 

【人間力:理想を現実化する力】
 私は近年、多くのヒーラーやチャネラーを育成してきたが、どんな生徒も必要なプロセスを踏めば、自然とサイキックな能力は開花され、チャネラーとして機能するようになる。
 ・・・中略・・・。だが、その開花した能力を社会で発揮する段階まで導くことは、想像以上に困難なことであった。
 多くの生徒が、種から芽を出しスクスクと育ち、つぼみを付ける段階までは順調にいっても、花開くことなく首を垂らしてしまう。
 そこに不足している要素。それは「人間力」である。
 人間力とは、今生の社会経験と実績からしか得られない、特別な力である。
 人間力とは、潜在能力でもなく、サイキック能力でもない。また持って生まれた才能でもない。それは努力の積み重ねからのみ得られる力で、人はこの力なしに理想を現実化することはできない。(p.235)
 現実世界の変革という視点で見た場合、この問題は重大である。
 高度な霊能力を有し、なおかつ現実社会において、国内のみならず海外においても様々な実績を積み上げている人って言ったら、それこそ数は限られている。
 人間力の乏しい者たちが寄り集まっても、そこには共依存が発生するだけだが、人間力が養われた自立した者たちが集えば、そこには人数分以上の驚異のパワーが生じる。(p.237)
 スピリチュアルな人々が集まって自給自足のコミュニティを作ろうとするなら、現実社会を運営する「人間力」が必要になってくる。そのような人が複数いないことには、共依存で共倒れになってしまいかねない。

 

 

【スピリチュアルな生き方】
 喉が渇くほど夢を語った分だけ、結果を出せ。
 宇宙を仰いだ分だけ、地べたに這いつくばれ。
 天使と戯れた分だけ、己の内に潜む魔物に向かえ。
 それが、バランスであり、人間力を養うことである。 (p.239)

 霊的能力とは、確固たる人間力の上でしか真の力を発揮しない。
 スピリチュアルな生き方とは、日常を楽しむことであり、愛を体現することであり、自分らしさや人間らしさを追求し続けることである。スピリチュアルな在り方とは、一般的に認識されている以上に現実的なものであり、それは生きることそのものなのだ。(p.240)
 スピリチュアルが好きな人々は、これを読んでどう思うのだろうか?
 逃避先としてスピリチュアルを選んでいたのなら、先に結論を知っていた方がいい。
 向かうスタンスを変えないのなら「無駄である」と。

 

 

【毒入りリンゴ】
 指導者は、常に明確な道を示すことは出来るが、その道を実践し結果を出すのは、あなた自身でしかない。
 そこに、依存心や被害者意識が存在するということは、毒入りリンゴを持ってピクニックに出かけるようなものである。(p.167)
 スピ系の実践を体験したことがある人なら、説明の用もなく理解できるはず。
 御利益依存心が確信的ダイナモとなっている倒錯的宗教団体信者は、「毒入りリンゴで幸せに!」をスローガンとして布教に頑張るのである。最初の縁を結ぶためであれ、これはどこまでも倒錯手法である。それどころか、道に興味のないまま何年でも属している(!)という人々が本当にテンコモリいたりする(!)のである。

 

 

【対人恐怖症の真実】
 対人恐怖症の人が語る悲話のほとんどは、本人の勝手な被害妄想に基づいており、相手に非があるケースが実は少ない。それどころか私の知る限り、対人恐怖症のほとんどは、被害者どころか逆に加害者であることが多い。(p.174)
 自分の側にある問題点を直視せず、他者を加害者にしたて成功した経験がある人は、これをエンドレスに繰り返すようになる。繰り返すことで対人恐怖症がより真実らしく身についてくるのである。(心理学では定説になっているけれど、初めは自覚的に嘘をついていても、それを何度もくり返していると、本人にとってそのウソは真実になり替わっているのである。特に女性にこの傾向が強い。)
 人間的にも感情的にも知的にも未熟な人は、このループに入りやすいけれど、このような人々が複数揃えば、若干抜きんでた一人を槍玉に容易に対人恐怖症リーグが結成されるのである。ここから相乗的な情報操作(噂話)を発信して陰湿な排除を完璧にやり遂げるのである。
 あなたは、これまで自分では想像もしなかったほど、実は無礼で攻撃的な側面を持っている。第一に、他人に向かって「怖い」と連呼することは、大変失礼なことだ。
 自分が相手の立場だったらどんな気持ちになるか、少し考えてみれば分かることだ。自分が恐れていたその人が、本当に恐れるに値するほど、話の通じない、知性に欠けた、心貧しい人間であるかを、誠実な心を持って再検討してみてほしい。
 もしかしたらその人物は、あなた以上にあなたの問題点に気付いていて、それを何とかして教えようとしていたのかもしれない。
 もしくは、あなたに心を開いているからこそ、喜怒哀楽を隠さずに表現していたのかもしれない。(p.178)
 対人恐怖症であることを自覚している人は、この本をよく読んで、自分自身を冷静に正直に観察してみればいい。対人恐怖症の人が周辺にいる人も、観察のテキストとして有効利用できる。

 

 

【センスの悪い生き方】
 対人恐怖症というものは、価値ある出会いを台無しにしてしまうものであることも、忘れないでほしい。
 過去に、ある人物との間で生じたトラウマ的経験を、その後の出会いに当てはめて生きていくというのは、とてもセンスの悪い生き方である。
 新たな出会いは、宇宙によって与えられたギフトであり、それを宝に変えるか、肥やしに変えるか、ガラクタに変えるか、それはあなた次第だ。(p.180)
 センスの悪い生き方になってしまうのは、トラウマ的経験だけではない。
 過去の初恋相手に執着していた場合、創作の世界ではそれを美しく描くための主題として利用できるけれど、現実の人生ではそれによる歪みがいずれシワ寄せとなって好ましくない事態になりやすいだろう。
  《参照》  『途中下車』 高橋文樹 (幻冬舎)
          【代用品】

 

 

【家庭内におけるカルマパターン】
 自分が敢えて意識的に、自分の子供時代の家庭内におけるカルマパターンを克服することなく親となり、自身の子育ての段階に入ると、その子育ては親にとってのリベンジと化してしまうことがほとんどである。
 それは、どういうことかというと、自分が親にされて苦しかったこと、悲しかったことと同じことを子供に対してすることで、知らず知らずのうちにバランスを取ろうとしてしまうのである。
 これらは、自然の法則の中で起こる現象のひとつで、善悪ということでも優劣ということでもない。(p.201)
 親になった経験がなくても、職場で上司に強烈に否定された経験があるなら、それと同じことがオートマティックに自分から他者に向かってなされてしまうという状況に気付くことはあるだろう。同じことである。

 

 

【そこを通らずして】
 あなた以上の痛みを抱えながら、あなた以上に笑っている人が沢山いる。あなたと同じ苦しみを抱えながら、あなたが嘆いている間に、それを克服しようと努力している人が沢山いる。

  それでも、まだ言うか? 「どうせ自分なんて」と、まだ言うか?
  まだ、その生き方をやめないか?
  そんなに卑怯な弱者でありたいか?
  そんなに人生を無駄にしたいか? 
  そんなに愛から遠ざかりたいか?
  何度も、何度も、自問自答を繰り返してみるといい。

 カルマを克服するためには、時に自分の愚かさや至らなさに愕然とし、いっそ死んでしまいたいと思うほどの自己嫌悪に苛まれる必要がある。
 そこを通らずして、根深いカルマの清算はなされない。自分の闇を受け入れるのだ。
 自分の中の薄汚さを。図々しさを、醜さを、拒絶せずに、否定せずに、受け入れるのだ。
 そして一言、「もう、こんな生き方はやめよう」「次へ行こう」と、自分を優しく諭してみるといい。(p.192-193)
  《参照》  『ボジティブ思考なんて捨ててしまいなさい』臼井由妃(学研)
          【中途半端はよくないよ】

 

 

【エピローグ】
 詩のように書かれているエピローグの最後の部分。
 私は 愛から発して父を憎んだ
 私は 愛に基づいて母を捨てた
 究極の愛知りたさに 私は孤独を選ぶ

 愛する者を全て断って 再び私は愛を説く

 「怒り」とは 何たる純粋な愛そのものであろう
 「悲しみ」とは 何たる素朴な愛の序曲であろう
 「怨み」とは 何たる斬新な愛の現れであろう

 鬼は「愛」を熟知している

 最後の門をくぐった者にのみ
 鬼の正体は明かされる
 修羅道を 涼しい顔で征した者に
 鬼は目を伏せたまま ニヤリとほほ笑む

 地獄の淵で 特大のハートをめらめらと燃やし
 今日も鬼は 笑いをこらえるのにひと苦労だ   (p.246-247)

 

 

 

 下記リンクは、雑誌に掲載されていた著者の記事。
  《参照》  『スターピープル Vol.40』 (ナチュラルスピリット)
          【マスターへの道程】

 

 

                    <了>