《前編》 より
【大阪を東洋のマンチェスターに:五代友厚】
産業の基礎である鉱工業の発展がなかったら、その後の日本の高度経済成長など決してあり得なかったのだから、西の渋沢栄一を知っているなら、同等以上に東の五代友厚を知っているべきだろう。
《参照》 『本物の経営者はどこがどうちがうのか! 深見所長講演録14』 (菱研)
【渋沢栄一と五代友厚】
明治の財界で、東の渋沢、西の五代と並び称されながら、 ・・・(中略)・・・ 五代友厚は、いまだにプラスのイメージで語られることが少ない。 ・・・(中略)・・・ 。
ところが、実際に伝記や評伝をひもといてみると、・・・(中略)・・・ むしろ、当時の日本人には珍しい雄大なスケールと慧眼を備えた優れた経済人であったことがわかってくる。
とくに、鉱工業の分野における分析力と理解力は、金融の人であった渋沢栄一には見られない理科系の才能であり、大阪が「東洋のマンチェスター」と呼ばれる大工業都市に発展したのも、ひとえに彼の才能のおかげであることが理解できる。
五代友厚は、商業の渋沢に対して、鉱工業の五代と呼ぶのがふさわしい日本資本主義の父のひとりなのである。(p.108-109)
儒学者の次男として薩摩の国に生まれた五代友厚は、島津斉彬から才助という名前をもらって、世界地図を模写する傍ら、自分で地球儀を作って眺めていたという。子どもの頃から対世界という視点で日本を考えることができたのだろう。ところが、実際に伝記や評伝をひもといてみると、・・・(中略)・・・ むしろ、当時の日本人には珍しい雄大なスケールと慧眼を備えた優れた経済人であったことがわかってくる。
とくに、鉱工業の分野における分析力と理解力は、金融の人であった渋沢栄一には見られない理科系の才能であり、大阪が「東洋のマンチェスター」と呼ばれる大工業都市に発展したのも、ひとえに彼の才能のおかげであることが理解できる。
五代友厚は、商業の渋沢に対して、鉱工業の五代と呼ぶのがふさわしい日本資本主義の父のひとりなのである。(p.108-109)
産業の基礎である鉱工業の発展がなかったら、その後の日本の高度経済成長など決してあり得なかったのだから、西の渋沢栄一を知っているなら、同等以上に東の五代友厚を知っているべきだろう。
《参照》 『本物の経営者はどこがどうちがうのか! 深見所長講演録14』 (菱研)
【渋沢栄一と五代友厚】
【日産コンツェルンの創始者:鮎川義介】
毛利家の藩士の家に生まれた鮎川は、母が明治の元勲井上馨の姪だったことから、そこに出入りする出世主義の学生たちに接するうちに、疑問を抱くようになったという。
大正15年(1926)、姻戚が手掛けていた久原鉱業が戦後の不況と金融恐慌で立ちゆかなくなり、鮎川に経営の代替を求めてきた。
でも、今日の日産は、創業者である鮎川さんの公益を旨とする理念なんて、ゴーンと頭をぶん殴られて、まるっきり消えちゃったんだろう。
《参照》 『ぼくたちは、銀行を作った』 十時裕樹 (集英社インターナショナル)
【ゴーン似の著者】 & 《追記》
毛利家の藩士の家に生まれた鮎川は、母が明治の元勲井上馨の姪だったことから、そこに出入りする出世主義の学生たちに接するうちに、疑問を抱くようになったという。
「いままで私の金科玉条としていた“立身出世”ははたして正しいのであろうかと。その結論として出たのが、《おれは絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行ない得ないで、しかも社会公益に役立つ方面を切り開いて行こう》」(『私の履歴書』日本経済新聞社) (p.152)
思うだけなら誰でもできるけれど、これを実戦しちゃうのが凄いところである。大正15年(1926)、姻戚が手掛けていた久原鉱業が戦後の不況と金融恐慌で立ちゆかなくなり、鮎川に経営の代替を求めてきた。
「よし、銀行たのむに足らず。自分は久原鉱業一万数千の株主を銀行の代わりに利用してやろう。そして、零細な株主を資本家に仕立てて利潤の一部を分けてやろう」(『近代日本人物経済史』東洋経済新報社)
こうして生まれたのが、公衆持ち株会社日産である。三井合名や三菱合資などと同じく、日産は傘下の企業の管理機関であるが、違うのは既存財閥系が株式非公開の同族企業であるのに対し、広く株式を公募する点であることだ。(p.155)
1932年にダット自動車会社を傘下に収めると、その2年後には日産自動車株式会社として、日本発展の一翼を担って行ったのである。こうして生まれたのが、公衆持ち株会社日産である。三井合名や三菱合資などと同じく、日産は傘下の企業の管理機関であるが、違うのは既存財閥系が株式非公開の同族企業であるのに対し、広く株式を公募する点であることだ。(p.155)
でも、今日の日産は、創業者である鮎川さんの公益を旨とする理念なんて、ゴーンと頭をぶん殴られて、まるっきり消えちゃったんだろう。
《参照》 『ぼくたちは、銀行を作った』 十時裕樹 (集英社インターナショナル)
【ゴーン似の著者】 & 《追記》
【真珠と言えばミキモト】
ワコールが海外に進出した折、縫製が不完全だからと言って、現地工員の前でブラを全部燃やしちゃったというパホーマンス話の類例の元をたどれば、御木本さんにまで遡るのだろうか。
養殖真珠の出現で天然真珠のマーケットを脅かされたパリの商人たちがひそかに結託して、御木本の養殖真珠は精巧な偽物で、その販売は詐欺行為であると、大正10年(1921)から大キャンペーンを張ったのである、その裏には、ロシアのユダヤ・シンジケートの黒幕ローゼンタールがいたと噂される。・・・(中略)・・・。幸吉はこの攻撃に信念をもって対決し、裁判所で白黒をつけようと頑張った。
結局、二人の真珠王の闘いは、東洋に軍配が上がった。鑑定を依頼されたスタンフォード大学の権威が「光沢はいかなる人工をもってしても模造しえないもので、当然、同じ価値を有する」と判定したからである。
この訴訟によってミキモト・パールの名声はいやがうえにも高まり、真珠といえばミキモト・パールという世界的評価が定まった。(p.199-200)
この話は以前読んだ記憶があるけれど、不合格品の真珠をスコップで火中に投じるまでして、ミキモト・パールの宣伝に努めたという話は知らなかった。結局、二人の真珠王の闘いは、東洋に軍配が上がった。鑑定を依頼されたスタンフォード大学の権威が「光沢はいかなる人工をもってしても模造しえないもので、当然、同じ価値を有する」と判定したからである。
この訴訟によってミキモト・パールの名声はいやがうえにも高まり、真珠といえばミキモト・パールという世界的評価が定まった。(p.199-200)
ワコールが海外に進出した折、縫製が不完全だからと言って、現地工員の前でブラを全部燃やしちゃったというパホーマンス話の類例の元をたどれば、御木本さんにまで遡るのだろうか。
【地下足袋から始まった石橋タイヤ】
石橋正二郎さんは、ここからゴム底の「地下足袋」を考案して当時の大ヒット商品を生んだらしい。
しかも、当時とすれば型破りな「単一品目・均一価格」という売り方を実施したのだという。足のでっかいおっちゃん達は、大いに喜んだことだろう。売る方も、価格の違いによる労力が省けた。工夫はそれだけではない。「足袋ができるまで」というドキュメンタリー映画を製作し、巡回上映しながら売上を伸ばしたという。
福岡県久留米の小さな「志まやたび」が「アサヒ足袋」になり、それがやがて世界のブリジストンになっていったのである。
当時、民衆は草鞋をはいていた。草鞋はたったの一日の寿命なのに五銭もした、さらに足袋もいるから履物だけで一日十銭もかかる。賃金は一日一円程度だから、なんと生活費の1割が足まわりに消えていく計算になる。(p.222)
われわれ現代人は、この記述にビックリする。石橋正二郎さんは、ここからゴム底の「地下足袋」を考案して当時の大ヒット商品を生んだらしい。
しかも、当時とすれば型破りな「単一品目・均一価格」という売り方を実施したのだという。足のでっかいおっちゃん達は、大いに喜んだことだろう。売る方も、価格の違いによる労力が省けた。工夫はそれだけではない。「足袋ができるまで」というドキュメンタリー映画を製作し、巡回上映しながら売上を伸ばしたという。
福岡県久留米の小さな「志まやたび」が「アサヒ足袋」になり、それがやがて世界のブリジストンになっていったのである。
<了>