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 下記リンク書籍の中に短く記述されていた、エルトゥールル号の遭難に関する状況が1冊の本になっている。日本人が助けたことだけではなく、95年の時を経て、トルコ人が日本人を助けてくれたことも記述されている。
   《参照》   『トルコのものさし日本のものさし』 内藤正典 (筑摩書房)
               【トルコ人の日本認識】

 

 

【台風で座礁・遭難】
 ときは、明治23(1890)年、9月16日。間もなく、午後9時。
 この日の午後、紀伊半島南端に接近してきた台風は、本州上陸を目前にしていた。(p.7)
 場所は、紀伊半島南端にある紀伊大島、樫野崎灯台付近。
 灯台宿舎の職員が、ドーンというような異様な音を聞いていたという。それは、蒸気船が座礁してボイラーに浸水し爆発した時の音だったらしい。船は折れて海底に没してしまった。しかし、奇跡的に岸に流れ着いた数人が、自力で歩いて灯台宿舎に辿りつき戸をたたいたのだという。

 

 

【救命】
 友吉たち若い衆は、生死の間をさまよう男たちをふとんに寝かせ、下帯一つでかわるがわるだきあたためていった。海で遭難した人の冷えきったからだをあたためるには、昔から、これが最良の方法だった。相手が外国の男だからといって、友吉たちにためらいはなかった。(p.24)
 このような海難救助法は、世界中で共通する救命方法なのだろう。『ディングルの入江』 の中にも記述されていた。火で部屋を暖めるのは言うまでもないけれど、最も効果的なのは人肌の体温で直接温めること。

 

 当然のことながら、言葉は通じない。灯台にあった 『万国信号ブック』 の手引書の中にあった国旗を指してもらって国籍がわかったという。トルコのエルトゥールル号は、東京での式典を終えて帰国時に遭難していたのである。

 

 

【島民の献身】
 今日では、紀伊大島は本土と橋で繋がっているけれど、当時は、完全な島。ましてや電話などない。小さな島なので農作物も少なく、お米は貴重品だったけれど島民全員であらゆるものを持ちより、夜を徹して救助した様子が書かれている。
 運良く救出されたのは69人。540人近くは海底に没してしまっている。69人を神戸の海軍病院まで輸送するのに、近くを航行していたドイツの軍艦が協力してくれている。

 

 

【無事送還】
 日本の海軍省は、神戸の海軍病院に移された69人の生存者の負傷がいえるのを待って、かれらをトルコ本国へ送るため、二せきの軍艦を用意した。「比叡」 と、「金剛」 である。
 エルトゥールル号の生存者を乗せた 「比叡」 と 「金剛」 は、10月5日に東京の品川を出港し、74日間の航海でイスタンブールに入港。69人すべてをぶじ送りととどける大任をはたした。(p.61)

 

 

【その後】
 エルトゥールル号の遭難と、生存者の救助救援にあたった大島村の人たちのことは、いつしか世間から忘れ去られていき、日本では “地方史のなかの一つのエピソード” になっていった。
 大島村の人たちは、そうしたことにかかわりなく、殉難者を悼む式典を10年ごとに樫野崎でもよおしてきた。樫野小学校の子どもたちは、埋葬地のそうじや花のせわを、学校の行事として1世紀もつづけてきていた。村が昭和33年(1958)年に串本町と合併してからは、5年に1度、追悼の式典がおこなわれてきているのだが、それが新聞の全国版や、全国ネットのテレビ局のニュースで紹介されることは、ないにひとしかった。(p.63)
 チャンちゃんも、この本を読むまで詳細は知らなかった。
 海難救助という事例ではないけれど、四国だったか瀬戸内海周辺地域で、ロシア人の墓を清掃し守り続けている人々もいるはずである。詳細は記憶していないけれど書籍で読んだのは確かである。
 このようなことを、あえて大々的に報道しないのは、陰徳を尊ぶ日本人の習性なのだろう。
 ところで、当時のオスマン・トルコ帝国政府は、大島村へ莫大な謝礼をしている。
 生存者の救助と保護、さらには遺体の捜索や埋葬にまごころをつくしてくれた大島村の人たちへ、オスマン・トルコ帝国は感謝をこめて3000円を送ってきました。現在の6000万円くらいに相当する大金です。(p.94)
 このお金で、現地にはエルトゥールル号の慰霊碑やトルコ記念館が建てられているそうである。

 

 

 今度は、日本人がトルコに助けてもらったお話。

 

 

【テヘランで行き惑う日本人】
 1985年に勃発したイラン - イラク戦争で、日本人500人近くが居住していたというイランの首都テヘランにもロケット弾が撃ち込まれるようになっていた。
 イギリス人やドイツ人やイタリア人たちは、自国から乗りいれている航空機でつぎつぎに出国していく。韓国の人たちは自国からの軍用機で帰国していった。 (p.67)
 ホメイニ革命(1979)以後、日本航空は政情不安を理由にテヘランへの就航は打ち切られていた。
 他国へ向かう便のキャンセル分でなんとか出国できた日本人はそれほど多くない。
 行き惑う日本人に、追い打ちをかけるように、
 3月17日のこの夜、イラク軍はおどろくべき通告を発表した。
 『19日午後8時以降、イラン上空を飛行すれば、民間航空機であっても攻撃を受ける可能性がある』
 つまり48時間後からは、イラン上空を戦争空域とし、すべての飛行機を飛行禁止にするというのだ。(p.70)
 このような状況での日本外務省の対応がふるっている。
 18日になってようやく、日本では政府が成田空港に日本航空の350人乗りジャンボ旅客機をスタンバイさせた。日本航空は 「午後6時までに派遣の指示があれば、救援可能」 と、離陸体制をととのえていた。しかし、外務省からはついにゴーサインがだされることはなく、かわりに、「何人が救援を必要としているか不明につき、派遣中止」 が伝えられた。(p.72)
 こういうのを読むと、外務省は、日本人犠牲者を出すことで、日本を戦争に巻き込もうとするアメリカの作戦にただただ盲従していたのではないかと思ってしまう。それ以外に考えられるだろうか?
 もしも、紛争地域への自衛隊機の派遣が法律上できないからしなかったというのなら、人命より法律の方が大切ということになる。そんな馬鹿げた話はないだろう。日本国民の生命と財産を守るために憲法はあるのである。

 

 

【日本人を救出してくれたトルコ航空】
 テヘラン駐在の野村大使は、親交のあったトルコのビルセル大使に窮状を伝えていた。
 日づけは間もなく、19日に変わろうとしていた。そのときだった。電話が鳴った。ビルセル大使からだった。
「トルコ航空が200席ほど用意できるといってきました。ほかに臨時便が一機。これにも多少は乗れるそうです」 (p.73)
 トルコ政府は、自国民を救出する意思のない日本外務省の呆れた行動を見かねて、飛行機を出してくれたのだろう。トルコ政府に感謝はするけれど、それ以上に外務省の対応に憮然とするだけである。


 

 

 

<了>