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 『東京漂流』 の著者の本なので、思い込みが先行して実話なのだと思って読んでいました。しかし、裏カバーには、膨大な旅の経験を軸に開始する小説活動の第一作となる、と書かれていました。


【心のアラベスク】
 あたかも実体験に基づく旅行記であるかのような小説のストーリー。シャーリー・マクレーンの魂の遍歴を巡る転生譚ほどの目的性はないけれど、現世限りの過去の記憶の痕跡を辿り行くかのような人間達が織り成すリースのような円環の連鎖、そんな記述が胸を打ちます。
 描かれている荒涼たる風景が醸し出す雰囲気が 『嵐が丘』 を思い出させます。けれどキャサリンとヒースクリフの様なファナティクな人間達の世界が描かれているのはありません。むしろ内向的で淋しさを感じさせる人間達ばかりが登場します。しかし、そんな人々の心と魂が風景の中に溶け込んで、小説全体が絵画のように、いや動画のように描かれていました。
 特に悲しみに満ちたストーリーというのでもないのに、涙が誘われてしまう本でした、私にとっては。


【ディングル】
 タイトルにあるディングルとは、ケルトの国・アイルランド、南西端にある岬の名前。その先にあるブラスケット島を主要な背景としてこの物語は描かれています。この書籍には地図が全く表記されていないので、物語の過程をGoogleで調べながらディングルに辿り着きました。
 打上げられた難破船の残骸から救出された少女。両親を亡くし、色のない絵を好んで描くプーカと、その恋人であったケイン。プーカを育てたアンガス老人。特に込み入ったストーリーではありません。しかし、これらの人物と土地に関わって象徴的に配されている幾つかのキーワードと、ケルトの象徴に仮託されているかのような人生をめぐる比喩が涙を誘います。
 


【ティール・ナ・ノーグ】
 漂流民であったアンガス老人は、プーカと同様に、瀕死の状態をブラスケット島民の多大なリスクの上に助けられ、この島に住みつくようになりました。その時のことの語りとして、著者はこう記述しています。
 「ワシは祖母の話を思い出した。ティール・ナ・ノーグの話しだ。そして、ひょっとしたらこのような島をティール・ナ・ノーグというのじゃないかって、そう思った。話の中に出てくる不死の島とは自分の長生きの欲望をかなえる島というのじゃなく、むしろ人が自分というものを消すことによって得られる大きな人間の命の輪のことじゃないかと。あのケルト十字架に架かる不思議な輪のようにね。人は死してもその輪はずっと生きつづけるんだ。だから自分の長生きの欲望をかなえるために島を目指した者の前では、それは近づいたとたんに消えてしまう・・・・・・・・・・」 (p.184)
 この部分を読んでいて思い出したのです。中国の方術士・徐福が目指した不老不死の島、蓬莱の国・日本は、ケルトと同じ 「ティール・ナ・ノーグ」 なのだと。そして、十字の交点を中心に円環が配されるケルト十字架は、やはり日本と奥底で繋がっていると・・・・・・。


【私の中で連鎖するイスファハーン】
 ケインが旅先からプーカに出した手紙が、このストーリーを締め括るピークの中で展開するひとコマとして出てきます。
 「消印にはかろうじてイスファハンの消印が読みとれる」 (p.278)

 そして、手紙の中にはモスク、ミナレット、アザーン、などのイスラムを象徴する単語群が並んでいます。
 ストーリーの中で必然性はないであろうに、イスファハン。(個を溶かし込んでしまうイスラム世界の異空間は、プーカの閉ざされた心を溶出させる手がかりになるのかもしれないが・・・) たまたま、この小説の 直前に読んでいた 『メッカ – 聖地の素顔 - 』 。 そのイスラム世界を引き寄せる、私にとってのトリガー・ワードが、ここでも突然現れて、私をブラック・アウトさせました。


【『東京漂流』民】 
 藤原新也、その著者の名を聞けば即座に思い出す 『東京漂流』。

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 インドを旅してそのありさまから近代文明都市・東京を反照させたその本の中に書かれていた 「人間は犬に食われるほど自由だ」 というコピー。この本を読み、このコピーに浅からぬ感慨を持ってしまう私と同類の人々は、おそらく前世の中で一度はインドに生きていたか、あるいは吟遊詩人かジプシーのような流浪生活を送っていたのではないかと思ってしまう。
 苛烈な砂漠に涵養されて神なるものに向かわんとする趨勢を持つに至った魂や、流浪生活に慣れ親しみ所有という概念なきままに自由な魂は、東京というメガロポリスに転生することで、過去世の憧憬に囚われつつも、余りにも異なった文化環境の中で異質な人生を学びつつ、魂のまとめとしての総括をしなければならないのかもしれません。
 それを辛い人生と思ってしまうのは、神や自由に向かわんとする純化した精神が住まう場所として、あるいは、安息を請う場所として、メガロポリスは余りにもその適地とは言えないからのように思います。
 そうであっても、現代のこの日本が、ケルト神話と同じように 「ティール・ナ・ノーグ」 であるならば、あるいはその痕跡を残しているのであるならば、少なくとも、そこにひとつの生き筋を見出せるはず・・・・。


【漂流する「自由」 vs 意思する「自在」】
 しかし、このようなスタティック(静的) な生き筋だけで、人は人生に納得できるものなのだろうか?
 もっとダイナミック(動的) な意味合いはないのだろうか?
 一方に、過去を留め受信する収束の螺旋があり、他方に、未来へ向けて発信する拡散の螺旋がある。
 今日のケルトやイスラム世界は、内に向かい安定を請う収束の螺旋のように思える。そして、今日の日本という国は、この螺旋円錐の二つの頂点を結節点として、逞しくも収束と拡散、二つ共に機能している国のように思える。
 日本には、世界のあらゆる精神、あらゆる文化・技術・秘儀を受信し留め置いてきた過去の歴史的経緯があり、これらを、未来へ向けてより繊細な波動に変えて再発信するのが、この国の現状であり役割のように思う。
 前文明的世界(過去を留めおく収束する螺旋)からの視点で東京を漂流しているだけでは、余りにも受身的過ぎはしないか。東京は世界をフォーカスするメガロポリスになりつつある。日本は世界をフォーカスする国になりつつある。
 漂流する 「自由」 は、どこまでもスタティックな精神の発露であるように思う。ダイナミックな精神は自らの意思において 「自在」 を旨とするものではないだろうか。
 収束する陰から、拡散する陽へ。陰と陽を使いこなすのが 「自在」 というもの。
 日本という、この国に生まれてきたことの本当の意味は、ここにあるのかも知れない。

 

<了>

 

  藤原新也・著の読書記録

     『ディングルの入江』

     『メメント・モリ』

     『なにも願わない手を合わせる』