
ホスピスの現場にいる方の著作なのだけれど、それほど予想外な人間模様を報告している記述はなかった。
何故このタイトルなのだろう。死ぬときの様子でその人が培ってきた人生のあり方が分かるということか?
何故このタイトルなのだろう。死ぬときの様子でその人が培ってきた人生のあり方が分かるということか?
【人は生きてきたように死んでゆく】
「人は生きてきたように死んでゆく」 という言葉があるが、不平不満を言いながら生きてきた人は、不平不満を言いながら死んでいく。その言葉どおり、ほとんどの人がそうである。しかし、人は生きてきたように死んでいく、という大原則の例外もやはりある。それが、「最期の成長」 「最期の跳躍」 である。(p.45-46)
どういう人に、「最後の跳躍」 が起こるかというと・・・・
「振り返り」 によって、他者に世話になったことを自覚できる人とできない人がいる。自覚できる人はまだ救われる。自覚できる人は、「あぁ、今まで本当にいろいろな人に世話になってきたなぁ。世話になってきたのに、まわりに対して自分は文句ばかり言ってきたな」 と反省する。そういう気持ちになれば、「最期の跳躍」 の可能性がある。 (p.48)
可能性がある、と書かれているだけで、確実にそうなるためのプロセスは書かれていない。
【死後の世界観】
「死の受容」 も大切だけれど、 「死後の世界観」 が明確であれば問題はないはずである。
クリスチャンの死後の霊空間は、神と自分だけの非常に狭く孤立した範囲に閉ざされている傾向があるという。明るさ、軽さ、暖かさ、といった晴れ晴れとした霊空間にいる人は非常に少ないそうである。
神仏に対しても人に対しても明るく暖かく親しみのある世界観をもって生きている人は、そのような霊空間に行くのであろうし、神なるものを遠く敬い厳格に崇拝するような信仰であるのならば、そのような霊空間に住むことになる。特定の宗教教学に記述された 「死後の世界」 しか知らなければ、そのような 「死後の世界」 に住むことになってしまうのである。霊空間とは、意志と想念の世界だからである。
安定した 「死の受容」 を実現する確立した信仰心より、客観的に正しい霊界知識の方がどちらかといえば重要なのではないだろうか。それは、ホスピスに来る以前に学んでおくべきことであるし、学んでいる人はホスピスになど来る必要はないだろう。もっともホスピスが提供するのは、特定の宗教的世界観でも客観的な霊界知識でもなく “人間的な暖かな配慮“ のはずであるから、それはそれで大切である。
《参照》 『ジュリアの音信』 山波言太郎 でくのぼう出版
我々の調査によるとその中で、「死の受容」 を一番しっかりできるのはクリスチャンである。これはかなりはっきりしている。・・・中略・・・。「私はクリスチャンです」 とはっきり言う人は、神の国を信じているので死後の行き先がはっきりしている。それだけ死を受け入れやすいのである。(p.56-57)
「死の受容」 ができたからといって、死後にその人が暖かな霊空間に住んでいるという保証はない。「死の受容」 も大切だけれど、 「死後の世界観」 が明確であれば問題はないはずである。
クリスチャンの死後の霊空間は、神と自分だけの非常に狭く孤立した範囲に閉ざされている傾向があるという。明るさ、軽さ、暖かさ、といった晴れ晴れとした霊空間にいる人は非常に少ないそうである。
神仏に対しても人に対しても明るく暖かく親しみのある世界観をもって生きている人は、そのような霊空間に行くのであろうし、神なるものを遠く敬い厳格に崇拝するような信仰であるのならば、そのような霊空間に住むことになる。特定の宗教教学に記述された 「死後の世界」 しか知らなければ、そのような 「死後の世界」 に住むことになってしまうのである。霊空間とは、意志と想念の世界だからである。
安定した 「死の受容」 を実現する確立した信仰心より、客観的に正しい霊界知識の方がどちらかといえば重要なのではないだろうか。それは、ホスピスに来る以前に学んでおくべきことであるし、学んでいる人はホスピスになど来る必要はないだろう。もっともホスピスが提供するのは、特定の宗教的世界観でも客観的な霊界知識でもなく “人間的な暖かな配慮“ のはずであるから、それはそれで大切である。
《参照》 『ジュリアの音信』 山波言太郎 でくのぼう出版
【十分泣いた人と、あまり泣かなかった人】
私自身は、予期悲嘆に関しては、「悲しみを表現しておけば表現しておくほど、あとの悲しみからの立ち直りが早い」 ということを最も強調したい。よく間違うのは、悲しみの表現を阻止することである。(p.77)
悲しみの表現に関わらずあらゆる感情表現と、無感情表現に関してすらも、他者が逐一容喙すべきことではない。あるがままに任すべきである。当人にとっての 「死の受容」、その親族や周辺者にとっての 「死者の受容」、いずれも、それぞれの霊的学びの段階に応じていることなのだから。
【複雑な悲嘆反応】
時空を超えて機能する 『原因と結果の法則』 について記述された著作など、今どき掃いて捨てるほど出版されている。この辺の法則性など、特に宗教団体に帰属せずとも、いくらでも学べるはずである。なのに学んでいないから根本的な原因を知らない。だから恨みつらみに翻弄される。 「お馬鹿」 の悲嘆反応に付き合わされる周辺の人々にとっては本当にいい迷惑である。
《参照》 『前世療法』 ブライアン・L・ワイス (PHP)
殺人というのは、恨みつらみが出てくる。「なぜ、何も悪いことをしていないのに、自分の子供が殺されなければならないのか」 という犯人に対しての恨みつらみである。犯人がなかなか捕まらないと、今度は警察に対して恨みつらみが出てくる。恨みつらみが出てくると、非常に 「複雑な悲嘆反応」 を起こす。(p.107)
こういう恨みつらみに明け暮れる “おバカさん” は、はっきり言って本当に 「お馬鹿」 なのである。時空を超えて機能する 『原因と結果の法則』 について記述された著作など、今どき掃いて捨てるほど出版されている。この辺の法則性など、特に宗教団体に帰属せずとも、いくらでも学べるはずである。なのに学んでいないから根本的な原因を知らない。だから恨みつらみに翻弄される。 「お馬鹿」 の悲嘆反応に付き合わされる周辺の人々にとっては本当にいい迷惑である。
《参照》 『前世療法』 ブライアン・L・ワイス (PHP)
《参照》 『未来世療法』 ブライアン・L・ワイス (PHP研究所)
《参照》 『あなたを変える「気づき」』 木村藤子 (小学館)
【被害者と加害者】
【「小さな死」 と 「本当の死」】
人生は陰陽のバランスの法則に支配されている。人生全体の幸運の総量に釣り合うだけの、小さな不幸を小出しに受け取るか、大きな不幸をいずれかの時期に一度で受け取るか、というようなことらしい。
バランスの法則にすら気付けないほどに安定した幸運に恵まれている人は、やはりそのようにして法則を学ぶことになるのだろう。
「小さな死」 を体験していない人が、「本当の死」 を体験すると大変である。いわゆる、上場企業のエリートコースを歩いてきた部長さんのような場合である。もちろん全ての方に当てはまるわけではないが、入りたい学校に入り、就きたい仕事に就き、儲けたいお金を儲け、就きたい地位にきちんと就き、というように 「小さな死」 をまったく体験せずにきた人が、「初めての喪失体験」 が 「自分の妻の死」 であったら、これはもう大変である。
「へぇ~、そんな人っているんだぁ・・・」、と私はこれを読んで妙に感心している。人生は陰陽のバランスの法則に支配されている。人生全体の幸運の総量に釣り合うだけの、小さな不幸を小出しに受け取るか、大きな不幸をいずれかの時期に一度で受け取るか、というようなことらしい。
バランスの法則にすら気付けないほどに安定した幸運に恵まれている人は、やはりそのようにして法則を学ぶことになるのだろう。
【「頑張ろう」 発言】
浮沈を分ける境界域より下の人に、「頑張ろう」 と言ってはいけない。藁を投げ込むどころか、錨を付けるようなことになってしまう。
気持ちを理解することに徹し、黙って側にいて聞いてあげるだけ、というのが一番の策という場合もある。
自分が悲しんでいる時に、まったく悲しみを経験していない人から、「いつまでもそんなことでくよくよしていてはだめよ」 と言われると余計に腹が立つ。(p.124)
勇気付けるつもりなのに相手がそうとってしまうことがあるから、うかつな表現はできない。浮沈を分ける境界域より下の人に、「頑張ろう」 と言ってはいけない。藁を投げ込むどころか、錨を付けるようなことになってしまう。
気持ちを理解することに徹し、黙って側にいて聞いてあげるだけ、というのが一番の策という場合もある。
患者さん自身は、もっと自分の弱音を聞いてほしい、というのが一番切実な気持ちである。その気持ちを聞いてくれず、「もっと頑張りましょう」 というように励まされてしまうと、患者さんは二の句が継げなくなり、黙ってしまう以外に道がないのである。(p.171)
「頑張ってね」 という “激励” より、 「大変でしたね」 という “感情理解“ の方が相応しい場合が多いという。
【陰陽の感情と言霊】
辛い、悲しいなどのマイナス感情表現と、楽しい、嬉しいなどのプラス感情表現がある。ホスピスなどの環境にあっては、言霊の力を怖れている普通の日本人は、マイナス感情表現によって現実が悪い方へ向けて形成されてしまうかもしれないという怖れも手伝って、逆に激励する言葉を選んで 「頑張って」 と言ってしまうのだろう。
しかし、 “話す” は “離す” に通ずるという言霊の解釈があるのである。マイナス感情表現の言葉を “話し” たら、その思いは、一旦、話者の心から “離れる” のである。 ただし、このような成果が得られるのは、それを話す当人の習慣(つまり性格)から離れた言葉である場合なのであろう。根暗な人など、マイナス感情表現が強固な習慣(性格)となっている人の場合は、 “離れる” 効果よりも、言霊によるマイナス環境の維持発展的形成パワーの方が大きくなってしまっているはずである。
正当な霊能者による施術は、性格の根源に潜む霊界に対して向けられている。マイナス感情表現世界に住みやすい人や根暗な人は、根暗な霊界を有しているのである。この霊界からの影響を遮断することで、 “離れる” 効果は実現しやすくなる。
落ち込んでいる当人の感情を無視して励ませば逆効果な場合はあるだろうけれど、落ち込んでいる当人の性格自体が、落ち込まざるを得ない状況をもたらすそもそもの原因になっているような場合には、感情に則してあげたからと言って慰めになったり改善に向かうわけではない。当人にとっては憂さ晴らしと変わらぬ現状維持であって、聞いている方は逆にマイナス世界に引きずり込まれるだけである。
霊的な施術を使えない人々は、このようなことを知りつつ、対応するしかない。正しい霊的施術を使いこなせるような人々は、相手の性格がいかなるものであろうと、それに引きずり込まれないどころか、逆に引き上げてしまうような性格的な明るさを有しているものである。(陰険な霊能者であるならば、それ故にこそ確たる偽物と即断して間違いない)。私たちは、そのような人のあり方を範として心掛け、人に接するのが最善のはずである。
辛い、悲しいなどのマイナス感情表現と、楽しい、嬉しいなどのプラス感情表現がある。ホスピスなどの環境にあっては、言霊の力を怖れている普通の日本人は、マイナス感情表現によって現実が悪い方へ向けて形成されてしまうかもしれないという怖れも手伝って、逆に激励する言葉を選んで 「頑張って」 と言ってしまうのだろう。
しかし、 “話す” は “離す” に通ずるという言霊の解釈があるのである。マイナス感情表現の言葉を “話し” たら、その思いは、一旦、話者の心から “離れる” のである。 ただし、このような成果が得られるのは、それを話す当人の習慣(つまり性格)から離れた言葉である場合なのであろう。根暗な人など、マイナス感情表現が強固な習慣(性格)となっている人の場合は、 “離れる” 効果よりも、言霊によるマイナス環境の維持発展的形成パワーの方が大きくなってしまっているはずである。
正当な霊能者による施術は、性格の根源に潜む霊界に対して向けられている。マイナス感情表現世界に住みやすい人や根暗な人は、根暗な霊界を有しているのである。この霊界からの影響を遮断することで、 “離れる” 効果は実現しやすくなる。
落ち込んでいる当人の感情を無視して励ませば逆効果な場合はあるだろうけれど、落ち込んでいる当人の性格自体が、落ち込まざるを得ない状況をもたらすそもそもの原因になっているような場合には、感情に則してあげたからと言って慰めになったり改善に向かうわけではない。当人にとっては憂さ晴らしと変わらぬ現状維持であって、聞いている方は逆にマイナス世界に引きずり込まれるだけである。
霊的な施術を使えない人々は、このようなことを知りつつ、対応するしかない。正しい霊的施術を使いこなせるような人々は、相手の性格がいかなるものであろうと、それに引きずり込まれないどころか、逆に引き上げてしまうような性格的な明るさを有しているものである。(陰険な霊能者であるならば、それ故にこそ確たる偽物と即断して間違いない)。私たちは、そのような人のあり方を範として心掛け、人に接するのが最善のはずである。
<了>