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 現在、日本人が直面する問題、解決すべき問題を思いつくまま挙げて、論じてみた。しかも、どこまでも視点は「男子」 からである。その意味で、この本は私の著作の中では例のない位置を占めている。(p.2) という書籍。
 政治問題や歴史問題に関して、ドイツ文学者の系譜にある著者から教えてもらえることは沢山ある。特にドイツの戦後処理問題に関する朝日新聞のデタラメを具体的事実に即して指摘していた著者の説明を知らない人は、政治問題・歴史問題を語る資格がないとさえいえるのではなかろうか。
 ところで、この書籍の後半は、読書や人生に関するエッセイのような記述になっている。大学時代、著者の記述するニーチェ( 『ツァラトゥストラかく語りき』 )に触れて魅入られた経験があるので、頷くことしきりの内容だった。

 

 

【孤独の自由】
 『男子、一生の問題』 と私は本書を名づけたが、男子が争いに当って一番大事なのは、闘いに逸ることでも、勇み立つことでもなく、また悲痛に興奮することでもなく、微苦笑を浮かべつつ、すべてのバカバカしい出来事をやり過ごすことである。
 嵐の中でも時間は過ぎてゆく。
 問題が怖くて近づかない者はそれでいい。もともと真の友人、仲間ではなかっただけだ。私はつぶれたり、つぶされたりしない。 (p.63)


 孤独は勝者のものである。
 孤独は不自由の反対概念である。自分が自由であるということは、誰に告げることでもないし、そもそも他人の前で証明するような性質のものではない。
しかし、「孤独の自由」 という心境をくぐれば、何ごとも迷うことなく前向きに展開してゆくだろう (p.65)
 孤独ということは、相対世界への不和合ではなく、相対世界からの超脱(あるいは勝ち抜け)を意味している。だからこそ、何者にも囚われることなく 「ただ独り歩む」 ことができる。
 

【フェミニズムやジェンダーフリーの行き着くところ】
 勇ましさ、力強さ、義侠心は、男のやさしさと矛盾しない。とかく線の細い、繊細なやさしさだけを男の優しさだと誤解している女性、ことに若い女性が多くなっているが、そういう男の見せかけのやさしさは、人生の危機に出会ったとき、たちまち卑劣な残酷さに変わらないとも限らない。
 人生の場数を踏んだ成熟した女性なら、そのことを知っている。
 「男らしさ」 と 「女らしさ」 の対立概念をなくしてしまおうとする現代のフェミニズム論、ジェンダーフリーの旗振りたちは、人間そのものを変質させて、社会を破壊してしまおうという方向を目指しているのである。(p.70)


 昔の社会は一部にそういう(男性が加害者で女性が被害者)側面があったかもしれない。しかし、今は女性が羞恥心を失ったほうが大きい。そのぶんだけ男性が無気力になり、女性が粗暴になっている。
 ・・・(中略)・・・。
 「男子、一生の仕事」 というようなテーマを堂々と表立って打ち出せないようなおびえた男子が世に増えている社会では、女子が変質し、男性が変化した女性の影響をいやでも著しく受ける。 (p.86)


 今の社会では人間は動物になりつつあるといわれる。しかし調教すればよくなるのだから、動物のほうがましである。調教されていない野生の動物を都会の中に放し飼いにしているのが、今の社会の現実である。(p.91)
 羞恥心のない変質した女性がセクハラなどとほざくのであれば、男が腕力で 「力」 を見せ付けてやればいいのではないか。中性化した男の全てが、そのままナヨナヨと腕力まで衰退させるということは考えづらい。男たちはそろそろ羞恥心のない変質しきったバカ女に対して、反動ないし反乱を起こすべきである。
  (こういうシナリオの番組があってしかるべきと思いつつ、シナリオ・ライターの気分)

 

 

【今の教育にこれ以上の「自由化」「個性化」は無用】
 彼らはすでに一人前の人間であるかのように振る舞っている。・・・(中略)・・・。自分はもう大人で、先生と対等だと思い込んでいるからである。また、そのように思い込ませる教育がなされてきたのである。 
 ・・・(中略)・・・。
 すべて社会的に自立していない状態であるにもかかわらず、自分はすでに一人前の大人になっていると思っていることから由来する。 (p.97-98)

 自主性や主体性は上から手をかけて育てるものではなく、雑草のように押さえても、踏みつぶしても、自ずと立ち現われる力の発現を土台にしなくては、言葉の本来の意味からしておかしいだろう。
 文部科学省や教育の現場に徒にはびこっている 「自由化」 や 「個性化」 の礼賛、先生と生徒の対等の関係に育てられた 「自主性」 や 「主体性」 とやらの概念の贋もの性をみかけるたびに、われわれは論争をしかけ、反対し、いたるところでそれの間違いであることを声を大にして語りかけていくべきであろう。(p.100)
 著者の論旨と同じことは、以前のブログで何回も書いている。その後にも書いた。
  《参照》 『個性を捨てろ!型にはまれ!』  三田紀房  大和書房

 

 

【日本人の茶髪を “猿” と見る西洋人】
 西洋への留学経験のあるドイツ文学者である著者は、日本経済が強くヨーロッパへの輸出攻勢かけていた時期に、西欧のテレビ報道の日本特集で、電車に乗り込むラッシュアワーの映像と動物園のサルの集団行動の映像が組み合わされていたことを語っている。群れる猿=日本人というイメージ構成である。
 なので、近年、ヨーロッパで日本人の茶髪の若者の集団が、のろのろとだらしない歩調で歩いているのに出くわしたときは、恥ずかしかった。 (p.101) と書かれている。
 西洋人の真似だなどと深く考えないで、ただ流行を追っているだけだという人には、自分はそのつもりでも、外国人から日本人の茶髪を見れば、西洋化は政治制度や建物にとどまらず、疑いもなく肉体の姿まで真似たがっている哀れな猿と思われてしまう事実に、どうか一度でも思い及んでほしい、と、そう伝えていただきたい。 (p.106)
 ブログの場をかりてお伝えした。

 

 

【子供時代の偉人論争】
 この子供時代の偉人論争に、現在の私の原型がほとんどあるといっても過言ではない。 (p.130)
 著者が13歳(中学生)のとき、豊臣秀吉の解釈を巡って、「民主主義の時代に封建時代の人間を偉人にしてはいけない」 という先生と論争していたのだという。
 超すっごい早熟ぶりである。13歳ころの私なんて、無知すぎて、素直すぎて、バカすぎて、単純すぎて、先生の言うことをただただ聞いていただけだった。

 

 

【根拠に向かって矢を放つ】
 論争の礼儀として、相手が意気揚々と胸を張って論じている、その根拠に向かって矢を放たなくてはならないのだ。揚げ足取りをしてはいけない。相手の道徳の中心部 ―― 言い換えれば、相手が疑問に思わずに信じている根拠に向かって矢を放つべきなのである。
 ・・・(中略)・・・。
 私の 『国民の歴史』 に対しては、たくさんの批判が寄せられたが、誰一人としてあの本の背景にある哲学的、宗教的な諸問題、あるいはそれを背景にした思想そのものについて論じたものはいなかった。 (p.148-149)

 

 

【哲学者・中島義道氏のスケールの大きさと危うさ】
 私は、この人生の中で様々な人に出会ってきたが、最近になって、私よりもさらに重い自我の病に取り付かれた “患者” を見ることができた。
 その人物とは、哲学者の中島義道氏である。
 彼は自己の知的優越を疑ったことは一度もないだろう。その意味では、大変な病気である。彼によれば、カントが最も頭がよく、2番目が自分だと思っているに違いない。ニーチェは頭が悪いと思っているのだろう。事実、彼は私にそう語ったことがある。
 もっとも、そこが彼のいい点でもあり、私が評価しているところでもある。これくらいの狂気を持たなければ、哲学者にはなれない。彼はただの哲学教諭ではないのだ。数少ない本物の「哲人」なのである。 (p.199)
 この部分、下記の書籍のために追記しておいた。
   《参照》  『英語コンプレックス脱出』 中島義道  NTT出版

 

 

【人材不足という文化のデフレ】
 現在は、書き手が消耗品扱いされている出版デフレなのだという。そうなれば、出版物の内容品質は保証されない。確かに、書籍の内容と販売数と価格は比例関係を示しているとはとても言えない実状である。
 今は、どの世界も人材不足ははなはだしい。文章の書き手だけでなく、政治家、企業家、大学の学長でさえも人材がいない。人材不足は文化のデフレである。 (p.212)
 

【読書に関して】
 活字離れがいわれ、本が読まれない時代ともいわれる。若い人の読書量の低落が何かにつけ取沙汰されている。
 けれども、本は意外に読まれている。本を大切だと思っている人は、日本では欧米よりも依然としてずっと多いように思える。・・・(中略)・・・。読書さえしていれば知的レベルに遅れないと安心している。そういう人は意外と多いので、彼らに私はあえて言っておきたい。本なんか読まなくたっていいのだ。読書なんて人生を豊かにするのになんの役にも立たない。まずそういう自己疑問を一度でも持たないでぼんやり本を読む人は、読書から何も得るものはないだろう。
 本の中の一言に立ち止まって、それが自分に突き刺さってくるような経験をせよ。
 自分の弱点を洗いざらい見抜かれて、背筋の寒くなるような体験をしながら本を読め。
 あるいは逆に、まるで自分のことを語ってくれているみたいだと、自分の意を代弁してくれている著者の言葉に思わず喜びがこみ上げてくるような読み方をせよ。  (p.220-221)
 著者にとってこのような書物に該当するのが、まさにニーチェだったのは間違いない。 

 

 時代が変わって、現在の学生たちは、西尾先生ではなく、白取さんが訳したニーチェを読むようになっているらしい。

   《参照》  『愛は愛をも超えて ニーチェの恋愛論』 白取春彦 サンマーク出版

 
<了>
 
 
 

  西尾幹二・著の読書記録

     『日本をここまで壊したのは誰か』

     『日本精神の道標』

     『男子、一生の問題』

 

  白取春彦・著の読書記録

     『愛は愛をも超えて ニーチェの恋愛論』

     『勉学術』

     『頭がよくなる思考術』

     『ビジネスマンのための「聖書」入門』