イメージ 1

 ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学んだという著者による、独学、つまり読書に関するあれこれが書かれている。高校生や大学に入ったばかりの学生が読むのに相応しい本だろう。2006年12月初版。

 

【漫然と眺め生きているようでは・・・】
 何もかも漫然と眺め、世にあるものいっさいをあたりまえだと受け止めている限り、疑問は出てこない。子供のように、あらゆるものに「なぜ」という疑問をもたないと、知識は得られないのである。
 しかし、世の中にいる多くの大人はこの新鮮な精神を失っている。「世の中とはこういうものだ」という一種のあきらめと怠惰の中にどっぷりとつかり、わずかに残った自己顕示欲を句作などでわずかに満たし、常習飲酒とくだらない趣味で時間をつぶしている。 (p.33-34)
 若い頃、漫然と生きて知識を積み重ねなかった人間ほど、物・金という即物的な人生観を持つようになる。漫然と生きて、簡単な漢字の読み方すら覚えなかったような人には、当然、知識も教養もない。そうなれば必然的に、「カネがすべてよ、利権がすべてよ、そのための人生だ、当然だろう」くらいのことを本当に思うようになるだろう。そういう大人たちがカネの力で日本社会の上層部を支配している。そういう大人たちは、漫然という習い性故に、社会を良くするために学ぶこともない。
   《参照》   『なぜ勉強するのか?』 鈴木光司 (ソフトバンク新書)
             【なぜ勉強しなければいけないの?】

 

 

【ラテン語ベース】
 英語やフランス語やドイツ語が分からなくても、ラテン語の知識があるだけでそういった外国語の意味がだいたいは理解できるということになる。カトリックの宣教師たちが外国語をすぐに覚えるのはラテン語を知っているからなのだ。
 私たちにしてもラテン語をちょっと知っているだけで、周りに溢れている横文字の意味もだいたいわかることになる。・・・中略・・・。
 外国の上級学校では、母国語の他にラテン語とギリシャ語を学ぶ。この二つの古い基本言語を知っているだけで、多くの事柄がより早く理解できるようになるからだ。日本の学校のように現代英語を学んでいるだけではまったく応用がきかない。(p.36-37)
 この話は、外国語を学ぶときに耳にしているだろうけれど、実際にラテン語の本を手にしたことなどないままの人がほとんどだろう。チャンちゃんにしても、ラテン語なんて、ヘルマン・ヘッセの小説の中で、マウルブロンの修道院で学んでいたゴルトムントや神学校で学んでいたハンス・ギーベンラートの物語の中に出てきたのを記憶している程度である。
 この本に書かれている簡単なラテン語は、ボルボ(回転する)、カローラ(小さな冠)、ポロ(北極星)、カリスマ(神の恩寵)、ボーチェ(声)、マグナム(大きい)。

 

 

【書斎はどこにでもある】
 本当に独学している人はどうしているのか。(p.39)
 本を読む時間をどうするかなどといったことを考えずにすでに本を読み、あたりかまわずどういう場所でも自分の書斎としているのである。
 わたしもそうだ。街宣車や暴走族の音が聞こえない場所ならば、どこでも勉強できる。読書や考えごとに熱中していると、周囲の物音が聞こえなくなるし、自分が今どこにいるのか全く分からなくなるほどだ。
 本を読んでいると、電車を乗り超すことはしょっちゅうある。(p.40)
 電車で本を読みながら入り込んでしまうと、電車を乗越す以外にも“それはちょっと”という事態になる場合がある。急に笑い出したり、涙にむせんでしまったりという場合である。電車で小説系はチョット危険。教養系なら安全だろう。
 通勤時間に本を読むというのは確かに一つの手であろうが、雑誌やチラシやインターネットサイトを覗く悪習慣を捨てれば、もっと時間がつくれるはずだ。もっとも無駄な時間と脳細胞の潰し方は常習飲酒である。常習的に飲酒する人間が独学どころか、まともなことをやれるはずがない。これはヨーロッパでは昔から常識とされている。(p.40)
 常習飲酒のみならず、多食もおもいっきり頭を留守にさせる。食べる量と読書量は明らかに反比例しているはずである。その他で、読書の障害になるのは、感情の乱れと不健康。

 

 

【異質に接して自分を変える】
 特別な書物がその性格を劇的に変えるのではない。本を読んで理解するという行為をくり返すことで変えられるのである。
 なぜなら、・・・中略・・・本を読むということは異質のものをとりあえず今は理解するという行為だからだ。これは忍耐を要する。異質なものを受容しなければならない。それが感情抑制を育て、心を変えるのである。・・・中略・・・。
 難しい本は、理解に時間がかかる。理解して読むのにも多くの忍耐が必要になる。内容は世間の価値観とは異なる。だからこそ、自分を変えるのに役立つのである。
 少しでもいいから難しそうな本をいくつも読んでいるうちに、半年前の自分とはちがっているのに気づくだろう。それは他人の眼にもはっきりわかる変化である。そうなったとき、すでに独学が習慣になっているのである。(p.44-45)
 独学の習慣がつけば、多様性を認識し異質を受容することは普通にできるようになるけれど、性格まで劇的に変わるかどうか、個人的には疑問。
 読書や海外体験を通じて、様々な見方や考え方(異質)があることを知るのは当たり前であり、それらが自分の知的側面を変革する上で有用であると認識しているけれど、チャンちゃん自身に関しては、昔も今も飽きっぽいのは何も変わっていない。おもしろかったり興味深い本の場合は、数時間ノンストップで読み通してしまうけれど、そうでなければ、完読はするけれど、かなりグウタラな読み方をしている。こういう性格は昔から何ら変わっていない。

 

 

【ベルジャーエフ】
 難解な本を読むコツというテーマの中に、いろんな哲学書がコンパクト言及されているのだけれど、その中に聞いたことのない名前があったから書き出しておいた。
 ベルジャーエフの本はじっくりと読む価値がある。ベルジャーエフは19世紀後半にロシアで生まれた哲学者である。この人の本は現代日本では容易に手に入らなくなっているが、その思想は深い人間愛に満ちたもので、現代のわたしたちの浅薄な考え方を正し、金銭欲にまみれた現代を鋭く批判する力を持っている。(p.64)
 著者の本が一般読者を魅了するのは、ここにあるような“人間愛”という基準によって語られているからだろうと思っている。

 

 

【速読の最大のコツ】
 速読法を身につけなければならないということはない。なぜならば、本をたくさん読んでいるうちに早く読むことができるようになるからだ。したがって、速読の最大のコツはたくさん読むことである。(p.85)
 いつもお決まりのペースで読んでいるだけでは、いくらたくさん読んでも早く読めるようにはならないだろう。脳が鋭敏な状態なら、意図的に眼球を早く動かしても理解がついてくるはず。ちょっとオーバーペースを心がけていれば少しずつ早くなるだろう。
     《参照》   『速読の教科書』 斉藤英治 (三笠書房)

 

 

【読書で世界が変わる】
 イエズス会の宣教師として16世紀の日本に来たルイス・フロイスの記録(岩波文庫)が引用されている。
 当時の日本における殺人についてのフロイスの観察報告は、わたしたちが一般に抱いている昔のイメージをひっくり返すにじゅうぶんだろう。

   われわれの間では人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や牝鶏または犬
  を殺すことは恐ろしいことではない。日本人は動物を殺すのを見ると仰天する
  が、人殺しは普通のことである。   (p.91)
 大抵の日本文化論に引用されるのは、日本人に関していいことばかりなので、この記述を読んだら誰だって「ウッソ~~」と思ってしまう。
 また、こんなのも
 われわれは海の精や海人のことはすべて虚構と考えている。彼らは海の底に蜥蜴の国があり、その蜥蜴は理性を備えていて、危険を救ってくれると思っている。 (p.91)
 江戸時代の人々は、ドラゴニアンを認識していたのだろう。(か?)
   《参照》   『日本人はドラゴニアン《YAP(-)遺伝子》直系! だから、〔超削減〕させられる』高山長房《前》
 また欧米文化について、以下のように書かれている。

 

 

【西洋の中世に子供という概念なし】
「なぜ、中世の絵画に乳児が描かれることはあっても子供が描かれていないのか」
 現代でいえば小学生にあたるような年齢から大人と同じように働き、今のような子供いう概念がなかったからである。
「なぜ、軍人であったデカルトは冬にドイツでのんびりと暮らしていたのか」
 当時は冬は休戦するのが常識だったからである。
 こういった事柄はそれひとつでは雑学に見えるかもしれない。しかし、古典を読むときの理解を深めるのに役立つのである。それだけ現代のわたしたちは過去の世界の生活について知らないからである。(p.155-156)
 時代や地域によって文化的背景が異なっていることが分かっていても、事前にすべてを明白に理解できているわけではない。疑問に思って心に残っていると、何の関係もない別の著作の中に、その答えがポンと出てくる場合がある。大抵このテの、文化的背景に関することである。