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 著者は2002年に亡くなっていたのを知らなかった。この著書は、三ヶ月にも満たなかった闘病のあいまに病室のベッドで、渾身の力を振り絞って書いた文章 (p.218) なのだという。
 殆んど本など読むことのなかった高校生の頃から、草柳さんの名前と著作のいくつかは知っていて、数十年に渡って日本文化を学ばせていただいていた。

 

 

【日本語】
 日本語は書きにくいが、読みやすいという特性を持っている。漢字は図形認識であり、平仮名は記号である。だから “斜め読み” ができる。同じ意味の文章をアメリカ人が英語で、日本人が日本語で読んだ場合、その読字速度は日本人が9倍であったと糸川英夫氏(システム工学)がかつて報告していたことがある。 (p.62)
 表意文字の漢字と表音文字のアルファベットだからそうなる。
 表意のみの中国語、表意と表音の日本語、表音の英語。単一ならずコンビネーションの良い日本語だからこそ、多様性に勝り、かつ表現の繊細さにおいても秀でている。

 

 

【 「学歴」 と 「学校歴」 】
 そもそも 「学歴」 と 「学校歴」 は違う。
 「学歴」 とは文字どおり 「学びの歴史」 であり、その人が何を学んできたか、どこに旅して、誰の話を聞いたか、何度口惜しい涙にくれたか、何冊の本を読んだか、どれほど美しい詩歌に接したか、みんな 「学歴」 である。学校の場合、「どの」 学校で学んだかではなく、「何を」 学んだかが重要なのだ。こういう考え方に基づく教育が、「意味ある人」 をつくるのである。 (p.96)

 

 

【日本刀の文化性】
 「心正しからざれば、剣また正しからず」 という名言があるが、剣が単なる武具を超えて人格の象徴として扱われるのは、天(神)からの光を受けたものという概念が出発点になっていよう。武家社会では、剣は 「武士の魂」 であればこそ、約束のしるしに 「金打(きんちょう:刀の鍔や刃を打ち合わせる、小柄の刃で刀身を叩きあう)」 という爽やかな儀式が生まれたのだ。 (p.145)

 

 

【畳の縁を踏まない】
 茶道を学んだ人なら "畳の縁を踏まない” という作法を学んでいる。しかし、その由来を知っている人は少ない。
 武家の訓(おしえ)によると、畳の縁には床に通ずる隙間があり、下から槍や太刀を突き上げると、踏んだものの足を刺す、だから畳の縁を踏んだりその上に座ってはならない、ということである。 (p.150)
 忍者屋敷の仕掛けでは、縁を踏むことで 「どんでん返しの仕掛け」 が動くようになっているのだという。
 挨拶のとき、右手の上に左手を重ねるのは、刀を使えぬ姿勢をつくることに由来するが、武士の作法はその源を公家に発し、それが僧侶に取り入れられ、さらに禅の思想が茶道に浸透するに及んで武家の礼法になったとする説がある。この茶道が豪商から町人の間に流布するに至って、一般庶民の規範にまでなったことは想像に難くない。 (p.151)

 

 

【自然と自燃】
 明治維新を契機として、西洋文明が奔流のように流れ込んだとき、英語やドイツ語の横文字を片っ端から翻訳したのが、西周という哲学者だった。ところが、青年たちが知識を吸収するうち、一番頭を悩ませたのは 「自由」 という言葉だった。英語では 「フリーダム」、ドイツ語では 「フライハイト」、語源にさかのぼってみても、まったく分からない。
 大正期になって “助け舟” が出た。鈴木大拙という禅の大家の、「自由とは、日本の言葉で言えば “自然” という言葉だろうな」 という一言が、知識人たちの迷いを解いた。自然とは 「みずからしからしむる」 という意味である。人間として与えられた、二つとない心と身体を、その特性のまま育ててゆくことである。
 自然に生きる人には、それなりのすがすがしさがある。ところが、同じ 「じねん」 でも、自然より自燃が大切だと、ある僧侶が中国の蘇東坡という高名な詩人に諭したという。「燃えれば仏界、醒めれば地獄」 であって、自分が燃えなくてなんで他人を燃やすことができよう、というのである。
 そのままがいいか、燃えているのがいいか、あるときは自然、あるときは自燃なのか、そんなことを老師に聞いたら、呆れた顔をして 「どちらからも自由になるこっちゃ」 と言われた。また、自由に逆戻りである。こうして死んでゆくのが人間なのだろう。 (p.186-188)
 草柳さんは、様々な角度から日本文化を記述しながら、その解釈の基点は常に仏教思想に拠っているらしい内容が多かったと記憶している。いろいろ学ばせてもらいながら、ほんの少しばかりの閉塞感を私の心に残していたとするならば、草柳さんが教えを請う方々に仏教の老師が多かったからなのだろうと思っている。
 最後の問いを神道家に質していたならば、決して 「自由に逆戻り」 などさせなかったはずである。
 
 
<了>