精神世界・スピリチュアルに強い関心を持ち、スピ系ブログや書籍を読む人は、自身の存在性や人生に何らかの疑問を感じているのかもしれない。
ただ一人一人その中身は異なるだろう。
不幸に襲われ、どうにもならない苦悩を抱えている人。
特に不幸はないが、何となく満たされないものを感じている人。
幸・不幸に関係なく、真実を知りたい人。
正解を求めている人。
私のブログにもいろんなタイプの人が訪れていると思う。
だが全ての人に共通する事がある。
それは「苦」である。
ある人はあらゆるものが満たされ、幸せを享受しているかもしれない。
が、その正体は紛うことなき「苦」なのである。
釈迦は「一切が苦」と説いた。
美味しいものを食べれば満足する。
裏を返せば…、何らかのアクシデントで食物が延々と断たれたとき、飢餓感に苦しむことになる。
愛する人がいる。
一緒にいるだけで深い安らぎを覚える。
だが、その人を何らかの事件・事故で失ったときは、深い悲しみを感じるだろう。
つまり、人の幸福を構成しているものは、そのまま苦の原因にもなっているのだ。
全ては条件次第である。
条件に支えられ、存在している。
誰ひとりとして独立自存している者はいない。
因と縁に拠りて果が生じる。
それは植物の花が咲くまでのプロセスに喩えることが出来る。
貴方がお花が好きで、自宅の庭・もしくはベランダで育てたいと思ったとしよう。苗ではなく、種子からだ…。
早速行動に移し、数か月後に見事な花が咲いた。
では、その結果を生んだのは何か?
花は花自体で存在できたのではない。
花という結果だけが独立自存しているのではない。
花を存在させたのは、その原因があったからである。
直接的な原因は種子である。
貴方はお花の種を手に入れたわけだ。
種メーカーの商品を買ったのかもしれないし、友人から譲り受けたのかもしれない。あるいは自生の花の種子を見つけて、持ち帰ったのかもしれない。

サカタのタネ・花三昧
この種子のことを仏教では「因」と呼ぶ。
存在や現象の直接的原因である。
しかし、種は種に過ぎない。そのままでは咲くどころか発芽さえしないだろう。
まず土に植える。
水もやる。
太陽の光も必要だし、空気も必要だ。
これらの条件が揃って初めて種が発芽し、育ち、花が咲くに至ったのである。
この土・水・陽光・空気などの諸条件を差して「縁」という。
因だけでは結果は生じない。
因に縁が触れて(揃って)、果が生じるのである。
12縁起の法(12因縁の法)により全てが苦であることを知る。
因縁・縁起とは条件生起と言い換えることが出来る。
その12支を列挙しよう。
・無明(非神秘・闇により迷妄に陥った状態)
・行(経験を構成する諸条件。衝動など)
・識別
・名色
・六処(6つの感覚要素と対象)
・接触
・受(感覚)
・愛著(渇愛)
・有(生存)
・生(出生)
・老と死
苦であることを知れば、
「この苦しみから解放されたい!解脱したい!」
という身を焦がすような強い願望が生まれ、決意が生まれ(信)、故に修行に打ち込むようになる。
これが「苦 信 修」という3つの階梯である。
「信」を換言すれば「信仰」といえる。
だが巷の宗教で言うところの信仰や信心とは全く異なる。
釈迦はあらゆる信仰を否定した。
ヴェーダ、バラモンの神々への信仰を禁止した。
それは神の存在や奇跡の力を全面否定したのではなく、「解脱に向かう修行においては不必要なもの」として、弟子たちに禁じたのである。
釈迦は創造主という概念も否定した。
故に仏道においてはキリスト教やユダヤ教の教理とも相容れない。
だが解脱の道に直結する「信」は必要不可欠なものとした。
つまり釈迦仏教における信仰とは、「私はすべての苦を滅し、悟りを啓き、解脱したい!」という切なる叫びだけである。
浄土宗における阿弥陀信仰や「極楽浄土に行きたい」という欲望は、本来の仏教と何の関係もない。
仏教の名を借りた「破法」である。
破法とは法を破るという意味である。
法華経をひたすら信じて題目を唱えれば成仏できる…という日蓮宗の教えも破法である。
法華経自体、釈迦の真の教えを歪曲し、引っ繰り返している。
しかも、法華経を信じない者・否定する者を敵対視し、「彼らは厳しき仏罰を受ける」と脅迫している。
これでもか…と執拗に仏罰を強調している。
まったくもって現代のカルト教団と同じではないか…。
法華経は非道なる教えであり、その悪質さはオウム真理教、統一教会、ライフスペース等の極悪カルトと肩を並べている。
いずれにしても、苦を知った人は真の修行に入ることが出来る。
それはアウェアネスに基づいている。根源的生命エネルギーや神秘次元のエネルギーが覚醒し、「悦」が生じる。
性的快楽をはるかに越えた超絶的な快楽を覚えるのである。
そのエネルギーが上昇し、頭頂のチャクラに到達すると「喜」が生じる。
そのエネルギーが満ち満ちて、梵の霊的原理と統合されると「軽安」が生じる。
軽安が肉体とエーテル体に満ちたときに「楽」が生じ、その強固な安定性により真の瞑想行に必要な条件が整う。
精神集中力・自我放棄・統合力が強化されるのだ。その力をもって瞑想を深めると「三昧」が生じる。
そのとき瞑想者は
「全ては相互の関係性のパターンに過ぎない」
という真理を悟ってしまう。
それは肉体の次元においても同じことである。
体質や個性と言われているものは、4種類のDNAの組み合わせで決定されているに過ぎない。
たったそれだけなのだ。確固たる自我など存在しない。
この悟りの意識を「如実知見」という。
如実知見をもって全てが無常であることを知れば、必然的に「遠離」する。
そして幻影に囚われなくなり「離貧」する。
離貧した魂は全ての法を悟り、「解脱」する。
これが釈迦が唱えた離解脱法(成仏するメソッド)である。全てと言ってよい。
大乗仏教の虚飾などは真実の仏道ではない。
すなわち
修行→ 悦・喜・軽安・楽・三昧・如実知見・遠離・離貧・解脱
の10ステップこそが根本仏教という事になる。
しかし修行をするには、そのキッカケとなる「苦」を真に自覚しなければならない。
その苦が生じる仕組みとプロセスを説いたのが有名な12縁起の法(12因縁の法)である。
単に「苦しいから楽になりたい」「何となく満たされない」「人生の意味を知りたい」という思いだけでは覚醒の道に入れない。
その程度の欲求では修行に入れない。真実に至れない。
安易に正解を求めるのは止めよう。無駄だよ。
誰も教えてくれないのだ。
神様も教えてくれない。
特定の指導者・師匠も教えてくれない。
彼らは単に援助してくれるだけだ。
真理を得ようと必死にもがくのではなく、虚偽に気付き、見破りなさい。
さすれば無明の雲が散り去り、叡智の目が覚醒するだろう。
貴方が貴方自身を探究してこそ、覚醒の扉が開かれるのである。
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エンライト@太古の道先案内人