マインドフルネス瞑想の源流 | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

先日、NHKでマインドフルネスの特集をしていた。
そういえば最近マインドフルネスという言葉をよく聞くようになった。
欧米では一部の企業が社員のメンタルヘルスのために導入する動きがあるという。

マインドフルネスとは、今ここで起きている現象・体験に気付いている状態を指す。
自己観照である。
この状態を実現させるために、意識的に「観察する」という訓練が行われる。

人は過去の嫌な経験に囚われがちだ。
まだ来ていない未来の心配事にも心を奪われがちだ。
それが強いストレスになり、心身の健康を損なうかもしれない。
仕事や生活での判断ミスも起こりやすくなり、人生を狂わせるリスクがある。

だが「今ここ」の自分に常に気付いていれば、自己を見失わず、現象に振り回されなくなる。


過去や未来のことを考えるな…という意味ではない。
人間ならば過去から学んだり、楽しい思い出に浸ったり、未来のことを考えて行動するのは当たり前である。

ただ、「今」の自分に気付くことにより、過去や未来を考える「今」の状態にも気付いていることになる。
それが重要なのだ。

話を付け足せば…、過去や未来といった時間のみの話に限られていない。
スピリチュアル界ではよく「今・ここ・私」と言うが、気付いていれば自分自身を見失わず、周りの出来事にも振り回されなくなる。

人は体験とともに生起する思考や感情に同化しがちである。
「のめり込む状態」と言ってよい。
だから振り回される。カルマのドツボにはまる。

しかし、体験している自己に気付けば、そこにスペースが出来る。
距離を置いている状態だ。
となれば、行為(カルマ)そのものはあっても、余計な種は撒かなくなる。


仏教では更に掘り下げる。
私の今までの説明では敢えて「今の自分」という概念を強調したが、仏教の真髄は非我説である。
他から独立した「自分」というものを認めないのだ。

全ては相互のつながり。関係性である。
AによってBが生じ、BによってCが生じる。それを縁起と言う。
確固たる自己はない。

科学的にもある程度は説明付くだろう。
仏法真理は科学を超えているが、物質次元だけを見ても明らかなのである。

人の個性と呼ばれているものは、4種類のDNAの組み合わせで決まる。
姿形・体質などが決定されるのだ。
すなわち4つのDNAの関係性のパターンであり、それ以上の何物でもない。

AによってBが生じる…。全てが相依性である以上、絶対不動の自己というものは成り立たず、常に変化する。
要は条件次第ということであり、諸行無常である。

仏教の悲願でもある解脱(げだつ)の重要なキーにもなっている。
人が輪廻するのは体験への執着である。
だが体験に気付いていれば、そこから切り離すことも可能になる。

つまりマインドフルネスは本格的な修行の道であり、人として、存在としての究極を目指しているのである。

実修中は何の目的意識も持たず、悟りや解脱への願望すら意識せずに取り組まなければならないが、結果として訪れる境地はまぎれもなく「悟り」「解脱」なのである。


だが欧米ではストレス低減、メンタルヘルスの手法として研究された。
仏教臭さは一切ない。
マインドフルネスを妥協なく突き詰めたら、仏教徒になることを意味してしまう。
それでは一般化することが不可能になる。

体験に気付くことは前述のように「振り回されない」「常に自己を保てる」という状態が得られるため、ストレスの低減・心身の健康にも役立つ。
故に欧米では臨床レベルでマインドフルネスの研究が盛んになったのである。


では、マインドフルネスという用語はどこから来ているのか?
元が仏教である以上、仏教用語にも同じ意味のものがあるはずだ。

…ある。

仏教には八正道という修道論がある。
その中の正念(サンマ・サティ)は意識の深い統一状態を差し、ある種の観照状態である。

サンマ・サティからサンマを抜けば「念」となり、それをMindfulness(マインドフルネス)と訳したのだ。

Mindfulnessの意味は、「注意に満ち溢れている」「気遣っている。心を配る」である。

英語圏における日常用語としてのマインドフルネスは、必要なことをしっかり思い出す(忘れずにいる)ことも意味している。
だから必要な気配りが出来るわけだ。

大事なことをうっかり忘れてしまったら、最適で十分な気配りなど出来なくなる。

しかしこの英訳には根強い批判がある。
意識的な努力…という面が強調されているため、仏教本来のサティという「意識状態」のニュアンスが薄らいでいるのだ。

サティには確かに「観察する」「今起きている現象に注意深くする」という能動的な努力の意味もあるが、単なる状態としての意味もある。

すなわち、気付こうとするだけではなく、「気づいている」という状態も含まれている。

故にマインドフルネスという訳語は最適ではない…という批判が起こり、他の用語が模索された。
いくつかの候補が挙げられている。

Inspection 視察 検査
Recollection 想起する 記憶
Attention 注意 手当 配慮
Awareness 気付いていること
Retention 維持 記憶 保存

これらはほんの一部であり、他にも候補がある。

しかしね…、Inspectionと訳した人はおそらく仏教への理解が中途半端だったのだろう。

Attentionはどうにも空港での「アテンション・プリーズ」を連想するのだが、私の個人的な印象に過ぎないか。笑


私は Awareness(アウェアネス)が最適だと思っている。
最近のスピリチュアル界でも、アウェアネスという言葉を使う指導者が現れており、特定のメソッドに結び付けているようだ。

アウェアネスの意味は「気づいていること」「自覚していること」である。
まさに"状態"を差しているのだ。


マインドフルネスは仏法真理と切り離すことができない。
だが前述のように、70年代から始まった欧米での研究は、主にストレス低減を目的としていた。
心理療法である。

近年では現実的な成功・願望実現を目的とする自己啓発のジャンルにも利用・応用する動きがみられる。

それらの動きを懸念する声もある。
心理療法として臨床試験を行うならば、常に「どんな結果が出たか?」のデータが必要となる。
臨床とはそういうものだ。結果が常に付きまとう。

しかし仏教のマインドフルネスは、目的意識を持たずに行わなければならない。
仏教の最終目標が解脱にあるとはいえ、実修においては効果を期待せず、結果に囚われず、「ただ行ない続ける」ことが求められる。

それをカルマヨーガと言い、カルマを解消する強力な武器である。

だがストレス低減や心身の健康を期待する欲がある場合、結果に囚われてしまい、因と果……すなわちカルマそのものになってしまう。
意業の一種である。

まして「金持ちになりたい」など現実的成功を求める自己啓発の分野では、仏教が説く非我・無我どころか、果てしなく自我意識を強化することになりかねない。


現在普及しつつあるマインドフルネスにはそのような問題があるため、テーラワーダ仏教(上座部)が指導するヴィパッサナー瞑想に関心を持つ人が多くなった。
しかし、これもまた問題が無いとは言えない。

一般大衆に指導されているヴィパッサナー瞑想はかなり簡略化されている。
セットで行うべきサマタ瞑想が著しく抜け落ちているのだ。
初歩中の初歩のサマタ瞑想しか教えていない。

指導団体によってはサマタを完全に省いている。観察行だけなのだ。


サマタ瞑想とは多くの人が想像する瞑想そのものである。
座法を組み、精神を集中し、深い深い変性意識に入ってゆく。

だがそのメソッドは極めて複雑で難解であり、社会人が実践するのは困難である。
本来は出家者が悟りと解脱のために修する本格的な道なのだ。

通常の意識とは異なる超意識ともいうべき状態に入るため、危険性が高い。
日常の意識に戻れなくなる可能性がある。
修行に専念できるはずの出家者すら事故を起こすケースがあるのだ。

故に本格的なヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想を行じるには、優れた師匠が手取り足取り弟子の面倒をみて、守り、導かなければならない。

スピリチュアルな師弟関係とはそういうものだ。
最後の最後まで面倒を見るという、霊的な責任が生じる。

だが日本ヴィパッサナー協会が指導する瞑想法はとても簡易的である。
セミナー形式で指導しているのだから当然と言えば当然。
大勢の生徒たちを手取り足取り面倒を見ることは出来ない。

日本テーラワーダ仏教協会にしても同じである。
こちらの組織でもヴィパッサナーを指導しているが、ネットのホームページで公開できるようなレベルである。
入会者への直接指導でもあまり事情は変わらない。

なにしろ在家の生徒なのだ。
本来、出家者のための行法を広く世間に普及させようというのだ。
とてもじゃないが出家者と同等の「強い縁」を結ぶわけにはいかない。

ということで、一般大衆は本物のヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想を実践するのは不可能と言える。

だが、それで良いのである。
貴方は何もかも捨てて解脱するために生まれてきたのか?
生きる死人になりたいのか?

殆どの人はそのステージにいない。
いろんな事を体験するために生まれてきたのだ。

その為にもマインドフルネスの実践は役立つことだろう。
解脱するための高度で複雑な瞑想法ではない。
現実世界をダイナミックに生きるために、自己理解を深めるのは必要なことだ。

ハートを生き抜くには、ハートの声を知らなければならない。
だから自己の内側に意識を向け、観察するのである。


同じ自己観察と言っても、次元の違いがある。
観察行と瞑想行を徹底的に突き詰めたら、現実から離れることになる。
死人も同然である。

貴方は今、どのステージにいるだろうか?
現実を生きたいのか?
それとも体験が満了し、全てを超脱する道に入ったのか?

あとは貴方自身の力で答えを見つけてほしい。
そして最善な結論を出し、その道を進んで戴きたい。


エンライト@太古の道先案内人が執筆した未公開原稿をアップしました。
冒頭のNHK特集は2016年に放映された番組かと思われますが、エンライト氏はその詳細な資料を残しておりません。
チームエンライト。